今西錦司記念山行 野坂岳(913.3m 一等三角点)

今西錦司記念山行 野坂岳(913.3m 一等三角点)

敦賀市街から旧国道27号線を西へ。市道に入り小浜線のガードをくぐり、野坂いこいの森の車道を行き止まりまで迄行く。 既に駐車場は満車状態であったが、3台分のスペースを見つけ駐車。 園内を左寄りに進むと直ぐ谷沿いの道となる。遊歩道のような幅広の登山道が続く。 対岸の斜面には、タニウツギやムシカリ(オオカメノキ)が広い範囲に咲き誇っていた。 さらに上がると藤や桐の紫も花盛り。渡渉して谷を離れるところが「橡の木地蔵」であったが気づかず通過、敦賀湾の展望が開けた所で思わず立ち止り休憩。 遠景は霞むが下の平野は良く見えた。尾根に出て暫らく進むと広場が有り、山頂まで2kmの標識が。ここまで1時間。 風は強かったが、噴き出す汗には気持ちいい。 尾根上に付けられた道からは時々敦賀半島の西方ヶ岳が山容を表す。 途中行者岩へ上がってみたが風が強すぎて足を踏ん張らなければ立ないほどで、展望を楽しむ余裕もなし。 一ノ岳展望地から電波塔へ直登したが、既に更地となっており跡形もなし。 そこから稜線を登山道に出たが、雪の重みにクネクネと曲がったブナや低灌木の林となっており、新緑と相まって素敵な道行となった。 そこから一段上がるとブナの巨木が林立する緩やかな山道となる。緑に包れ爽やかな風が心地いい。 樹林の中、三ノ岳の看板を見れば山頂はすぐ。避難小屋の前を通り、展望の良い一等三角点に着いた。 すぐ東には前年支部山行の岩籠山、南には高島トレイルの山並み、西に若狭の懐かしい山々、北に若狭湾と敦賀湾がひろがり遮るものはない。 集合写真を撮った後、小屋前の広場で風をよけ昼食とした。 山頂付近には、ミツバツツジ、ウラジロロヨウラク、また途中の登山道にはヤマボウシと初夏の木の花々を楽しむことが出来た。 トレランのような速足登山者に多く追い越されたが、予定より早く安全に登山を終えられた。同行の皆様に感謝。 [神山敬三 記]
(表記の標高は間違いではないかと指摘の向きもあろうかと思いますが、2014年の国土地理院の標高改算に依りました。国土地理院の電子2.5万図も参照)

(日 時) 平成28年5月15日(日)
(場 所) 福井県敦賀市野坂
(参加者) 神山敬三、後藤 充、白木貞次、白木しづゑ、杉山美智子、竹中美幸、林靖子、山本善貴、横田昭夫、三宅一正
(タイム) 伊吹薬草の里(集合、出発)6:30=野坂いこいの森登山口8:30-野坂岳頂上10:50~12:00-登山口13:30=伊吹薬草の里15:30(解散)
(地 図) 敦賀

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山野坂岳28年5月15日

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第1回 権現の森林づくり 2016年4月3日

  第1回 権現の森林づくり

2016年4月3日 曇り、小雨

参加者  竹中佳美、藤井法堂、岡田清美、神山敬三、藤田純江、山本善貴、中島眞一、浅野勝義 8名
作業内容 林道沿い、登山道付近ののぼりを交換。小屋開き。鹿除けネットの点検。トイレの枠組み組立。

倒木を切断し、登山道脇に並べた。
林道終点の残置物を集積片つけた。

雑感   林道登山口までの道路整備が進み、難なく終点まで車での乗り入れが出来た。
広場のすぐ上にはバイカオウレン、イワウチワが咲いていた。芽吹きはまだだが、薄緑の林に変わっていくのが楽しみだ。
他に登山者は無く、小雨の中、小屋の前で早めの昼食とした。道の駅に戻ると小雨もやみ、多くの観光客らの集まる中、解散となった。
前回の参加から、ずいぶんと月日が過ぎ、植樹した苗も生長しただろうが、どこに植えたか分からなくなってしまった。

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第2回 権現の森林づくり 2016年4月24日

権現の森林づくり

2016年4月24日 晴れ
参加者 竹中佳美、岡田清美、神山敬三、久野菊子、竹中美幸、浅野勝義 6名
作業内容 林道登山口付近の道路整備工事に備え、登山口に在るポット苗を植栽地に移動するとともに、付近の備品を整理。(ブナ爺近くにポット苗を養生)
トイレの屋根を取り付ける。
山頂までの登山道の状況調査。(山頂近くの急斜面の階段不具合、フィックスロープの調整必要)
植栽地の不燃ごみの回収。
雑感 前回同様、林道登山口までの道路整備ができ、車での乗り入れが非常に楽になった。
植栽地付近は芽吹きが始り、薄緑の林に変わってきた。ビオトープにはまだカエルの産卵はない。
イワウチワの花期は終盤。数輪を見る。
藤波谷からの数名のパーティー有り。その情報によると、登山口付近の渡渉が増水の為難儀したとの事。
架橋は無理だが、何らかの対応が必要。

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山岳講演会

山岳講演会

[演 題]  私と山岳警備隊 -遭難現場報告-
[講 師]  岐阜県警山岳警備隊飛騨方面隊隊長  谷口 光洋 氏

(はじめに)
こんばんは。岐阜県警山岳警備隊飛騨方面隊の隊長をしています谷口と申します。私は岐阜県警ですが、富山県警にも谷口凱夫(かつお)さんという人がいて、よく間違われます。知っている人もいると思いますが、富山の谷口さんはものすごく活躍された人です。富山の熊といわれるようにすごく大きい人で、それに較べ私は岐阜の猿といったところです。富山の谷口さんは富山県警山岳警備隊を作られたような人ですが、私は現場ばかり歩いてきた人間です。昭和51年に入隊してから40年間、主に北アルプスを中心に救助活動をしてきました。
今日は山岳会の方ばかりでないということで、私たち山岳警備隊はどんなことをしているのかをあまり知らない人も ▲講師の谷口光洋氏
多いと思います。それで3、4年前に放映したビデオを用意してきました。20分程度のものですが、最初にそれを見ていただき、その後でお話ししようと思いますのでよろしくお願いします。

BS-TBS制作   『夢の扉』より       2012年10月18日 放送

500人を救命! 山岳レスキューを変えた男  谷口光洋
一刻も早い救助、1秒でも早く命をつなげる救急道具!
レスキューハーネス(RESCUE HARNESS)

錫杖岳での救助活動の様子
・40代女性が岩場から滑落。へりの近づけない岩場の途中の岩棚でパーティの仲間と一緒  に救助を待つ。日没まで2時間20分。時間が無く、救助を急がなければならない。
・谷口隊長の決断で、ヘリの近づけるギリギリの所で救助隊員を下ろし、そこから救助に  向かう。上からはパーティの仲間が遭難者だけを担ぎ下ろすことにする。
・1時間半後、どうにか遭難者が隊員の待機する場所まで下ろされてくる。
・すぐにレスキューハーネスを装着。遭難者を包み込み3カ所を止めるだけなので素早く  装着出来、隊員と共にヘリに収容。無事日没前に救助出来た。
・谷口の開発したレスキューハーネスは、多くの遭難者達の命をつないでいる。
谷口の話
・無事助けられた遭難者からのお礼の手紙の紹介、残念ながら助けられなかった遭難者の  手記の紹介
・「生きて帰れたらああ良かったなと喜びますし、力及ばなかった時は本当に寂しい気持ち  です。山を愛する者が山で命を落とすことが無念でなりません。山岳遭難が1件でも少  なくなるよう、僕たちはこれからも頑張っていきます」
絶景!北アルプスの四季
・谷口が一番好きな山は地元の穂高岳
・穂高岳に毎年多くの登山者が訪れる理由は四季の美しさにある
・春の雪解け、初夏の新緑、秋のあざやかな紅葉、白銀の冬。そして夜は今にも降ってき  そうな満天の星
山岳警備隊入隊の頃の話
・「入隊した動機は高校生の時、山で目にしたある光景です。登山中にたまたま事故を目撃  しました。山岳警備隊の人がサッと現場に来て、遭難者を背負ってパッと救助していく  姿がものすごく格好良かったのです。こんな人の命を助ける仕事があるんだな、自分も  やりたいな、と思いました」
・昭和51年、神岡警察署で山岳警備隊に入隊。3年先輩の長瀬初彦隊員から登山や救助に  関する色々なことを教えてもらった。
・その長瀬隊員が昭和52年5月4日、救助活動の途中に墜落し死亡。その日北穂高岳の滝  谷で滑落事故が発生し、長瀬隊員達は救助に向かい谷口は穂高岳山荘で常駐していた。  8時間後「滝谷で隊員が落ちた。応援を頼む‥!」という無線を聞く。いやな予感を振  り払うよう現場に駆けつけたが、やはり長瀬隊員だった。落石をよけようとして転落し  たのだ。人を助ける厳しさを谷口は胸に刻んだ。
・谷口が入隊した1970年代の山岳救助は民間の救助隊、特に山小屋の従業員が中心だった。  警察官の救助道具は十分でなく、救助に当たることはほとんど無かった。(穂高岳山荘   2代目主人 今田英雄氏の話)
・当時はザイルを遭難者の体に巻き付けて救助していたが、ザイルは重いし背負うのも背  負われるのも大変で、ヘリに吊り上げるのにも手間や時間がかかった。
レスキューハーネスの開発
・谷口が山岳ヘリ救助の先進国であるヨーロッパに研修旅行に行った時、フランスやスイ  スの山岳救助隊が、これまで見たこともないヘリ救助専用の道具を使っているのを目に  した。
・自分達で工夫して道具を作っていることに一番感心し、道具が無かったら自分達で作れ  ば安全なものが出来るのだと考えた。そして、急峻な山でも遭難者を安全に背負い、そ  のままヘリで吊り上げられる道具の開発を思い立った。
・登山用具メーカー社長の高橋和之氏と、山岳救助専用のハーネス作りに取りかかった。  何も分からない手探りの中、試作し、現場で試し、さらに改良を重ねること10年、つい  に最強のレスキューハーネスが完成した。
・レスキューハーネスのポイント
①隊員と遭難者の姿勢が常に安定していること
②短時間で着脱できること
③すばやくヘリコプターで吊り上げられること
・装着はいたって簡単。遭難者を背中から包み込み、両脇の下と股下から出ている3本の  紐の先をカラビナで繋ぐだけ。
・レスキューハーネスはこれまでおよそ150人の命をつないできた。
・今年(平成24年)4月、谷口は山岳警備隊では全国で2人目の警察庁指定広域技能指導  官(専門分野で卓越した技術・知識をもつ職員)に選ばれている。36年間の山岳救助の  実績が評価されたわけだが、これからはその技術を全国の後輩達に指導していく使命を  背負っている。
・後継者として指導教育している入隊11年目の陶山隊員には、レスキューハーネスの改良  という大役を任せている。
夜中の救助活動の様子
・夜7時に遭難の一報が入る。現場は滝谷で滑落事故のようだ。遭難者は全身打撲と骨折  で動けない様子。
・車で30分走り、その先険しい山道を1時間登ったところに遭難者がいる。翌日は天気が  悪そうなので今晩中に救助しなければ危険な状態になると判断し真っ暗の中を出発。
・9時頃に遭難者を発見。30代の男性で、午前11時頃落ちて倒れていたところを通りかか  った登山者が見つけ通報してくれた。もし誰も通らなかったら命の心配がある。見つけ  てくれた人のおかげで救助できた。
・レスキューハーネスで交互に遭難者を担ぎ、谷口の先導により3時間かけて下山。午前  0時頃無事救急車で病院へ搬送した。
・今年(平成24年)41件目の遭難で、谷口は又1人命をつないだ。
エピローグ
・10年前に穂高岳で遭難し救助された人の感謝の言葉
・遭難死した長瀬隊員の未亡人の感謝の言葉
・「そう言ってもらうと本当に有り難いですね。この仕事をやっていて良かったなと思いま  す。自分達で作れば良いものが出来ることが分かったので、ハーネスだけでなく他の道  具も改良していきたいですね」
・命をつなぐレスキューハーネス。1秒でも早く、1人でも多くの命を救いたいという思  いをつないでいく。                           (終)

どうも有り難うございました。このビデオを作った当時は照れくさい気持ちでしたが、いまではいい想い出になっています。山岳警備隊の事を少しは分かってもらえたと思いますので、これからお話しをしていきます。

(入隊の動機)
最初に、映像にもありましたが山岳警備隊を志望した動機について話します。昭和48年の夏、高校生の時に友人と2人で槍穂高を縦走していました。キレットにさしかかると、当時南岳小屋を経営していた沖田さんが1人で遭難者を救助されていました。手伝おうとしたのですが、「もうすぐ警備隊が来るからいいですよ」と言われ、しばらく様子を見ていました。そしたら南岳の小屋の方から警備隊の人が2人サーッと来て、遭難者を背負って、今から思えば確保もあまりせずに、すごい速さで南岳の方へ梯子を上っていったのです。「なんてすごい人達なんだろう。それにかっこいいし人を助ける仕事だし、自分もやってみたいな」と思いました。
その当時「山と渓谷」とか「岳人」とかをずっと見ていましたし、二見書房の本で警備隊の手記とか民間救助隊の手記なんかを読み「この仕事がやりたい、そのためには警察官になろう」と思い、昭和50年に三田洞にある警察学校に入りました。1年間そこにいて、昭和51年春に神岡署に配属になりました。今は上宝村は高山市に合併されたので高山署が管轄していますが、その当時は北アルプスの警備は神岡署が管轄だったのです。35人くらいの小さな署で、希望すれば誰でも山岳警備隊に入れてくれたので、すんなり入れました。大変嬉しかったです。
(初出動)
初出動はその年の4月中旬でした。一月ほど前に西穂の独標付近で行方不明になっていた人が、稜線から400mくらい降りたところで発見されたのです。遺体を収容するため丸山あたりから降りて行くのですが、初めてアイゼンとピッケルを使って現場に向かいました。急な所はアイゼンを使いますが、皆グリセードで降りて行くのです。きついことをするなと思っていたら、半年程前に入った先輩が「俺には無理だから帰る」と1人応援を頼んで、西穂山荘へ戻っていきました。
他の隊員で現場に行きましたが、遺体は死臭がひどく顔はつぶれ日に焼けて真っ黒でした。すぐにシートでくるんでスノーボートに乗せました。ロープウェーの真ん中の駅に運ぶ予定だったのですが、ボートが滑らず時間がかかり、夕方になっても半分くらいしか進みません。立ったまま非常食を分け合って食べ、ヘッドランプを頼りに夜通しスノーボートを引きました。明け方から雨が降ってきて、私個人としては「そんなに急いで下ろさなくても、次の日にやればいいのにな」と思っていましたが、いずれにしても大変な仕事を選んだな、という気持ちがありました。
朝6時頃に仲間が応援に来ました。8時頃にロープウェーの中間駅付近に来ると、家族が待っていました。60才くらいの父親と思われる男性が走ってきてボートにひざまづき「○○チャン寒かったろう。皆が連れてきてくれたんだぞ。良かったな」と言ってから涙も拭かず「皆さん有り難うございました。息子はもう戻って来れないのではないかと思っていました。夜通し歩いてくれたのですね。本当に有り難うございました」とお礼を言われました。
私はそれで夜通し歩いた意味が分かりました。待っている人がいるのだから、出来るだけ早く連れて帰るのが務めなのだと分かりました。初めての救助で大変でしたが、お父さんのその言葉を聞いて疲れも吹っ飛びました。「何と感謝されるやりがいのある仕事なんだろう。これなら続けていけるな」と思いました。
当時は警備隊の成長期みたいな時期で、民間の山岳会の人に教えてもらいながら救助活動をしていました。夏は肩を貸して連れて来たり背負ったりしていました。亡くなった人は二つに折って背負子に括り付けて背負っていました。冬はスノーボートがありますが、いずれにしても時間がかかることが多く、救助される方も大変ですが救助する我々も負担が重く、背負っている途中で命を落とされるということも結構あり、辛いことも多かったです。
現在はヘリと携帯電話の普及で、ものすごく素早い要請とヘリレスキューが出来ます。ヘリから70mのホイスト(ウインチ)で吊り上げできますから、たいていの場所はピンポイントで救助出来ます。出来ない場所は北アルプスの岐阜県側では北穂の滝谷のツルム下と奥穂のジャンダルム近くのセバ谷附近です。そこでは70mでは届かず苦労して下したりしていますが、いずれにしても我々にとっては楽な救助になりましたし、遭難者にとっては生存の確率が高くなっています。
(二重遭難)
次に二重遭難の話しをします。我々救助に携わる者が絶対起こしてならないのが二重遭難ですが、残念ながら岐阜県では過去に2件発生しています。1件目は映像にもありましたが、昭和52年5月4日に滝谷で3歳年上の長瀬警部補が亡くなりました。状況は長野県の山岳会の人が滝谷で死んだのです。今はそんな気骨のある山岳会はほとんど無くなりましたが、当時は山岳会の人が自分たちで収容することが多かったのです。その山岳会も自分達で収容するけれど道がよく分からないので2名ほど道案内を頼む、ということで長瀬隊員ともう一人若い隊員が行ったのです。ナメリ滝という難所にさしかかり、雪渓を横切っていた時落石があり、それを避けようとしてアイゼンが滑り10m位落ちて岩にぶつかったのです。
私は当時入隊2年目で、近くの穂高岳山荘で第1回目の春山常駐という任務についていたのですが、夕方になって無線が入ってきました。谷底からなので感度が悪く断片的な情報しか入ってきませんでしたが、遭難間違いなしということで、他の隊員と3名でD沢を下り現場に向いました。長瀬隊員を山岳会の人と一緒に降ろしていると、下から警備隊の仲間や民間の北飛山岳救助隊の人も登ってきて、合せて20人以上集まりました。翌日病院に運びましたが、亡くなりました。
2件目は平成21年9月11日、ジャンダルムのそばのロバの耳という所で防災ヘリのローター(主翼)が岩に当って、ヘリがセバ谷に落ちて3名が亡くなるという大変痛ましい事故です。当日、私達警備隊は沢登りの訓練をしており、参加しなかった1人の隊員が現場で作業をしている時にヘリが落ちてしまったのです。すぐに別の警察のヘリで遺体収容とか実況見分とかを担当しました。
また、長野県に東邦航空という遭難救助に多くの実績があり、山岳遭難は任せなさいという会社があります。ヨーロッパ仕込みで、時間を短縮するためヘリの下部にワイヤーを垂らし、そこにハーネスをつけそのまま現場へ行くというすごい方法でやっていた篠原秋彦という大ベテランがいました。私も何10回となく一緒に活動しましたが、その人が平成14年に鹿島槍で、遭難者と一緒にモッコの中に入って吊り上った時に落ちて亡くなっています。
これ等の事故はその時その時の原因があります。長瀬さんの場合は、山岳会で収容したいというので道案内で隊員が2人行きましたが、今から思うと3年以内の若い隊員だけで厳しい現場に向かったということです。ルートの取り方に無理があり、ベテランがいたのに使わなかったということで人選も良くなかったと思います。
防災ヘリの場合は、うちのパイロットがたまたま所用で出れないということで、急遽防災ヘリに飛んでもらったのですが、やはり北アルプスの経験が乏しかったのです。山の天候は風や地形に左右されることが多いのですが、その特性を知らなかった。応援してくれたことには感謝していますがやはり無理があって、判断が良くなかったのが原因だと思います。
東邦航空の篠原さんは大ベテランで、日本で最高の遭難救助件数をこなしている人です。慎重な人ですが、何時も遭難現場をビデオで収めていました。危険な場所でもそうで、亡くなった鹿島槍の場合も遭難者と一緒に現場を離脱したまでは良かったのです。それで安心したのか、途中でビデオを撮るなどしており、やはり油断があったのだと思います。この他に北アルプスでは富山県警で3名、長野県では民間の救助隊員4名が殉職しています。
我々の場合も一般の遭難者と同じで、本人の無念さはもとより残された家族全員の生活が狂ってしまうということで本当に悲惨な出来事です。仕事というだけで、結果は一般の方の山岳遭難と同じで絶対やってはならないことですが、私達山岳警備隊は救助が仕事でありプロですから、遭難者の生と死が私達の双肩にかかっているのです。どんな危険な場所でも1分でも1秒でも早く現場に駆けつけ俺が助ける、という気位いというか気概がなければやれない仕事です。そういう厳しい中で40年間出来たということは、他人の命を助けることが出来たという達成感と、危険な所では私達しかやれないという満足感や誇りではないかと思います。他に楽な仕事とか楽なポジションがありますし、給料のいい仕事とか出世欲とかありますが、それと離れた所に変な魅力があり、その魅力があったためにこれまで続けられたのだと思います。
今は私達の活動が報道されたり本なんかも出ていますので、すごくいい隊員が入ってきます。県内だけでなく関西とか東京辺りからも来ていますし、大学の山岳部や社会人山岳会で海外遠征したような人も入ってくれて、すごくありがたいです。
(最近の遭難事故)
遭難事故のことについて話します。岐阜県下では昨年初めて遭難件数が100件を超えました。非常に残念なことです。正確には発生が106件で、負傷者60人、死者23人、そして行方不明が1人です。参考までに今年は10月現在で83件発生しており死者は11人となっています。昨年より少しは減っているということで喜んでいます。
県下の遭難の形態で一番多いのが道迷いで36件、次に転落滑落の33件です。北アルプスのように厳しい山では転落滑落が多いのですが、里山では道迷いが多いです。北アルプスは登山道がはっきりしており道標も多く、又来られる人もベテラン登山者が多いので、道迷いは少ないような感じです。
道迷いや冬山遭難で特に注意してほしいのは、皆さんの使われている携帯電話です。このバッテリー切れが一番問題です。今はどんな場所でも携帯が使えます。北アルプス周辺で使えないのは滝谷、白出沢、それに新穂高に近い右俣左俣、それ以外はほとんど使えます。ヘリを要請してからバッテリーが切れたため、特に冬なんかで遭難者を発見できず凍死というケースが何件かありました。
山ではバッテリーの消耗がものすごく早いです。このことを念頭において、時間を決めて警察と交信して、使わない時は電源を落としておく。さらに肌につけて寒さを防止、そして予備電池を何個も持つ、このことに配慮して欲しいです。110番で元気だと電話した後、どれだけ捜しても見つからず亡くなっていたというのでは我々もすごく悲しいですし、このバッテリーは絶対に大事にしてほしいと思います。
道に迷った時、沢や谷に降りて転落死というのも非常に多いです。迷って下の方に町の灯りが見えると「あゝ、あっちだな」と灯りの方に向かって夜でも下に降りていく人が多いのです。沢とか谷には地図に表れない滝などの難所が沢山あります。今までに地図に表れない滝に落ちて死んだ人も沢山います。迷ったらむしろ高い方へ行った方が発見されやすいし助かることが多いのです。そのことも頭に入れておいて下さい。
ヘリを呼んだら、林の中では発見しにくいですから、木の少ない所とか草原とかの発見されやすい場所に移動して我々を待っていてほしいと思います。余談ですが、昨年日本山岳会の人が奥飛騨の藪山に登られました。私も一緒するつもりだったのですが、たまたまヘリの用事が入って参加できませんでした。ヘリの用件を済ませて時間があったので、様子を見にその山に行ったのですが、皆さんの姿は全然分かりませんでした。後で登った人の話を聞くと、ちょうど頂上に着いた時にヘリが来てすぐに「あゝ、谷口さんだな」と分かったけれど、真上で爆音は聞こえても機体は全然見えなかったということでした。本当に林の中は全然分かりません。
分かりやすい場所に移動したらタオルとかジャンパーなどを振って、自分の居場所を教えて下さい。黄色とか赤色とかがよく分かります。穂高の稜線なんかでは登山者が多く、ヘリを見ると皆手を振るのですね(笑い)。ヘリの起こす風が強いので余り近くには寄れず少し離れた所から見ているのですが、誰が遭難者かよく分からないのです。持っているものを上に上げ大きく振って、気がついたなと思ったらそれを上下させて下さい。この2つの動作をしてもらったら大体分かります。
10年ほど前に長野、富山、岐阜3県の遭難防止対策協議会でこの方法がいいと決めたのです。その時は広報したのですが、大分時間がたったのであまり知らなくなってきています。改めて広報しなければならないなと思っていますが、この2つの動作をしてもらうと間違いなく発見出来ます。
林の中では煙を出すのもいい方法です。カメラや携帯のフラッシュをたくものいいです。何でもいいですから、自然の中に不自然なものが1つでもあったらよく分かります。東邦航空の篠原さんからは、女性のコンパクトが光ったので発見出来たという話を聞きました。色々方法は有ると思いますので、皆さんで自分が助かる方法を考えて下さい。

(ヘルメット)
次にヘルメットのことについて話します。北アルプスでは転落滑落が多いので、ヘルメットの着装をお願いしたいということです。現在、槍穂高では多くの人がヘルメットをつけています。100mくらい落ちて絶対ダメだろうという場所でも、全身打撲や骨折はしていても頭はやられず助かったていうケースが何件もあります。今年も長野県側に落ちたのを我々が助けにいったのですが、その時も100mくらい落ちていました。ヘルメットは着けていなかったのですが、近くに割れたヘルメットがあり、そのお陰で助かっていました。
岩場ではヘルメット着用をお願いします。涸沢ヒュッテ、涸沢小屋、槍ヶ岳山荘、西穂山荘などには貸し出し用のヘルメットもいくつかあるようですが、数に限りがあるのでなるべく自分のヘルメットをかぶって下さい。
昨年の御嶽の時もヘルメットはいろいろ言われましたが、やはり噴火に対しても有効です。飛んでくる岩なんかはヘルメットくらいではどうしようもありませんが、逃げる途中ころんだりすると思います。小石も飛んできたりしますからヘルメットは有効な手段です。長野、富山でもヘルメットをかぶるようにしましょうという動きです。
(登山届)
登山届について話します。岐阜県では昨年県条例を作って、北アルプス、御嶽、焼岳に入る時は提出することを義務づけしました。出さない人には過料とかの厳しい話しもありますが、それが目的ではなく、出してもらって安全に登りましょうということで作った条例ですからお願いします。
登山届は大事だと思います。この仕事を40年近くやっていて、遭難事故に際してもし登山届が出ていたら助かっただろうというケースが幾つかあります。登山届を出していたら早い立ち上がりで捜索出来ますし、場所もピンポイントで捜索範囲を絞ることが出来ます。是非出していただきたく思います。
さっき映像であった手記が出て来た事故は平成7年6月のことです。岐阜の方でしたが、西穂高の外(そで)ヶ谷という西穂山荘から焼岳へ行く尾根とロープウェーへ行く尾根の中間の谷に迷い込んだ32才の男の人がメモに残された遺書です。ちょっと読んでみます。
「95年6月14日 月曜から遭難して今日は水曜日 お母さんごめんなさい 助かるよう頑張るけど寒さがつらい 今は元気だけれどこの先分からない もしもの時はお母さん今までありがとう あなたの息子でよかった」とメモしたのが遺品から出て来たのです。母親が、同じ悲しみを味わう母親が出ないようにと公表していただいたものです。登山届が出ていたなら早い段階で間違いなく救出できたケースでした。私が登山届の提出のお話しをするのは、この遺書の中身がいつも心に残っているからです。
山岳会の方は何時も出されていますが、個人の場合は登山届を作るのが面倒ですし出しにくいものです。けれど作る時にはコースタイムの把握とかエスケープルートの確認、装備品や食料のチェック、万一遭難した時の連絡先の確認等が出来るので、作成すること自体が皆さんにとって有意義なのです。ですから条例云々と言うことでなしに登山届を出してほしいと思います。登山届を出さない魚釣りとか山菜採りの場合でも、少なくとも家族とか職場の人に行き先を言って出かけることが自分の為になります。
新穂高の登山口には山岳警備隊がいますので、入山先の道の様子とかの情報が色々分かります。ぜひ登山センターに立ち寄って登山届を出し、このコースに変わったことは無いかと一声かけてくことが皆さんの為にもなりますので、よろしくお願いします。
山の事故については昔から色々な本などに書かれており、山の死は綺麗なものだとか山で死ぬのが本望だとか言われていますが、残った者はかないません。山の死というものは全然綺麗なものではありません。これまで話してきたように、行けば顔はつぶれ手足は折れて少し経てば蛆がわいたりしています。死臭は凄いもので、背負った場合家に帰って風呂に入っても全然落ちません。長い時間が経った遺体はそんなものです。さらに、もっと運が悪くどうしても発見出来ない人も沢山います。もし生存しても、車椅子の世話になったり凍傷で指が無くなったりする場合があります。そうなった人を私も沢山知っていますが、本人はいいとして家族への影響とか生活のことを考えてみて下さい。
この悲惨な遭難事故を防ぐ方法として、無理のない計画、装備品や食料の点検、トレーニング、体調管理、それに加えて登山届の提出を呼びかけているわけです。昨年県下で遭難した人の40%が登山届を出していました。北アルプスでは70%出していました。条例になったことで注目されて提出率が上がったのだと思います。今年はさらに提出率が上がっており、すごくいいことだと喜んでいます。昨年は全部の遭難の80%にヘリコプターを使っています。まさにヘリの時代です。1年間に遭難に係わった警察官の数は延べ2000人です。これだけの人が出動しました。
ちなみに御嶽噴火の時岐阜県からも百何十人の警察官が出ていますが、これは遭難でなく災害だということでカウントされていません。私の隊も当日からずっと出動していました。長野県より規模が小さかったのですが、背負ったりヘリで吊り上げたりと色々活動しました。私も2日目から何回か現場に行きましたが、ものすごく規模が大きく我々にはとても手の出しようのない大災害でした。
(最近の遭難)
昨年の遭難事故について幾つかかいつまんで話します。
3月30日に西穂山荘と焼岳の中間にある割谷山にワカンも持たず一人で入った人が、雪がひどくて動けないと言ってきました。我々は夜遅くまでみぞれの中を向かったのですが、これ以上行ったら自分達も危ないということで帰りました。次の日朝早くから捜したのですが全然見つかりません。3日後にヘリが発見してくれました。この時期アイゼンはもとよりワカンも持っていないことでは一人で身動きがとれません。装備が不十分ということで基本が出来ていなかったということです。
5月5日に涸沢岳の西尾根、冬に奥穂高へ行く一番簡単なルートですが、そこにある大学のパーティが登っていて2名が転落しました。初心者の人がトップで登っていたのですね。初心者の人は間にはさむようにして行くのが基本ですが、その基本が守られていなかったということで、非常に残念でした。
5月30日に槍ヶ岳で滑落。凍結していたのですが、ちょっと写真を撮るだけだからとアイゼンをつけていなかったのです。この日2人亡くなっているのですが、もう少し道具の使い方に気を使ってもらったら簡単に防げた事故です。
7月9日に南岳で韓国の人が道に迷いました。地図も持たずスニーカーだけで食料もない、登山届も出してないという状態です。たまたま領事館に電話が通じて、領事館から連絡があり長野が捜して、岐阜県側だということで我々が出動したのです。このように何もかも不十分で無計画な登山者にも対応しています。
7月18日には焼岳で79歳の人が転倒して頭を打った。ツアー登山でしたが大人数の参加者のわりにガイドが少なく面倒見切れなかったのです。ガイドにも色々いるのでガイドの数をもう2、3人増やしてほしいと言ったのですが、コスト的に無理でした。
8月16日には滝谷が増水して3名が流されました。山の水は一時にザーッと出ますが、雨が止めばすぐに少なくなります。そういう特性が分かっておらず無理して渡ったのです。槍平の小屋の人が「危ないです。もう少し待ったらひきますよ」と注意したらしいのですが、山小屋の人が言うと「小屋に泊まってほしいから言うのだ」(笑い)と思われることもあるようなのです。それで、どこまで止めたらいいのか分からないこともあるらしいのですが、小屋の人は山のことをよく知っていますから、その人の判断に従っていただきたいと思います。
9月14日に錫杖沢で2人が同じ場所で蜂に刺されています。入り口に何個所か注意看板を出していたのですが全然見ていないのです。折角の立て看板ですから、色々書いてあることを注意して見てもらったほうがいいと思います。

今年の遭難でも思うことが幾つかありますので、紹介させていただきます。
1月11日に52歳の人が笠ヶ岳へ向かったのですが、降雪で動けなくなったということで救助要請がありました。3日後にヘリで収容したのですが、どこも悪くないのですが全然気力が無くなっているのです。隊員がテントから出てこいと言っても全く動く気力が無い。山では助かろうという気力が無いとダメですし、我々もやる気がなくなります。(笑い)
3月28日に北穂の第4尾根を登って帰る途中、雄滝の滝壺に落ちて亡くなっています。行方不明になって暫く後に発見されたのですが、滝壺なんかの近くを通る時はアンザイレンしてザイルをつけたままでないとダメですね。いくら急いでいてもそういう基本が守られていなかったということです。今年の9月にあった岩登りの方も、第4尾根を登ってツルムを越して斜度が緩くなったということでザイルを外して稜線に上がる途中でいなくなった。C沢の右俣に落ちて亡くなっていましたが、ザイルはどこで着けてどこで外すかをキチンとしないと、折角のザイルですが身を守ってくれません。
7月27日にはノルウェー人の夫妻が、西穂から奥穂へ行く途中馬の背で動けなくなった。どこも悪くないのですが、奥さんが「こんな所は怖くて行けない。日本の案内には全然書いて無いではないか。我々をこんな所に行かせるのか」と言うわけです。夫妻で弁護士をされている人でした(笑い)。たまたま穂高岳山荘に山岳常駐の警備隊がいたのでザイルを張って連れ帰ったのですが、言っていることが全然分かりませんでした。後から何も言ってこなかったので問題になることもなかったのですが、外国人の登山者は多いですね。
看板をどの国の言葉で書いたらいいか、難しいところです。多い順に英語、韓国語、中国語とかでは書いていますが、ノルウェー人は何語を話すか分かりません(笑い)。日本山岳会なんかを通して、日本にもこんな厳しいコースもあるということを世界に知らせてもらえば有り難いですね。以前、韓国の方の遭難が増えた時にそういう動きをしてもらったことがあります。それで韓国の登山者のマナーが良くなりましたので、ぜひ期待しています。
8月6日、弓折岳で登山者がすれ違う時、上から降りてきた人が登ってくる人を待ったのです。その位置が谷側だったため当たって落ちました。やはり、待つときは山側というのが基本ですが、その基本が出来ていないとこういう事故になります。
8月10日には3名で抜戸岳から降りる途中で夜になったけれど、ヘッドランプが1つしかないので迎えに来てもらえないかということです。天気が悪いけれど行かないわけにもいかないのでいやいやながら行ったのですが(笑い)、アルプスへ行くときはランプ位は持ってきてもらわないと困ります。
8月19日には別の遭難があり、私も乗ってヘリで出動しました。その遭難者は長野の方で亡くなっていたのですが、ジャンダルムの飛騨尾根の横で1人倒れているのを発見しました。遭難してしばらくたっていたのですが、家族からもどこからも連絡はなく登山届も出ていないというので、気づくのが遅れたのです。早く分かっても助かるような場所ではないのですが、登山届が出ていれば早く捜索して早く見つけてやることが出来たと思います。
8月20日には焼岳で単独の登山者が下山中道を間違えて、さっきお話したように下へ降りて行ったのです。黒谷という中尾の方へ降りていく谷に入り、途中幾つか滝を降りたけれど最後の所でどうにもならなくなって救助要請がありました。たまたま携帯が通じる場所だったので助かったという事例です。やはり下へ降りるのは無理だということです。
(ヨーロッパ研修)
次にヨーロッパの研修のことを話します。皆さんの税金で行かせてもらいましたので、何か役に立つことがあればと思いお話しします。平成9年にフランスとスイスに行きました。こういう時代ですから装備とか訓練とかはネットで調べればわかりますが、現場の空気というものが知りたくて、お願いして行かせてもらったのです。
フランスではPGHM(山岳憲兵隊)というのがシャモニにあって、モンブラン、ドリュー、グランドジョラスとかで活動しています。これは軍隊です。兵隊が50名くらいいて、ドクターもいてヘリと一体で動いています。国立のスキー登山学校を卒業したエリートの集りで、選ばれたというプライド、身分保障もすごい。訓練も多く新しい装備を常に研究していました。ただ殉職者もすごく多く、ヘリの基地に40もの殉職者の名前が刻まれた碑があって横に空地もあるのです。「これからも殉職者は出るのかな、これは真似したくないな」と思いましたが、とにかくプライドとか新しいものを作る意欲というのは勉強になりました。
スイスではレガという所に行きました。これは年会費3000円を払えば誰でも会員になれるという組織で、世界中何処へでも行く、山岳、スキー、事故、病気何でも行くという対応です。ジェット機が2機、ヘリが16機、常にドクターや山岳ガイドが同行し、ここでも装備は自分たちで開発していました。ここもプライドの高い隊員でした。
まだ時間がありますので余談として聞いて下さい。私が腹の立ったことです。穂高岳山荘で足が痛くて動けないというのでヘリを頼まれた人がいました。痛ければ乗せていきますが、たまたまヘリが整備に入っていたのです。その頃は民間のヘリもありましたので、「県警のヘリは整備中なので、民間のヘリなら呼べます。若干お金はかかりますが」と言ったところ、「金を出すくらいなら歩いて降りる」(笑い)ということです。当時1時間60万円でかなり高いのは事実ですが、それなら最初から頼まなければいいわけで、そんな言い方無いだろうとこれには本当に憤慨しました。
もう一つですが、以前はアマチュア無線で遭難をキャッチすることが多かったのです。地元に大きなアンテナを立ててSOSをキャッチしてくれる人がいました。大変ありがたかったのですが、助かるたびに「感謝状を出しなさい。新聞にも載せなさい」と言うのですね。確かにありがたいのですが、度を越しているという感じで個人的には嬉しくなかったです。
これまで話したように、個人的な満足ということで助ける喜びはありますが、助かった人が良くなりましたと言って交番とか署に来てくれるのも嬉しいものです。退院しましたという礼状と一緒に地元の酒なんか送ってくれたりするのが一番いいですね。そういう時が人から喜んで貰える仕事をやっていて良かったと思う瞬間です。
(不思議な話)
不思議な話をします。平成の初め頃白出沢を夜遅く降りてきた人が、セバ谷の付近で人魂(ひとだま)を見たというのです。その後別のハガキが来てあの付近に光っていたと書いてありました。その頃奥穂の山頂付近で1人行方不明の人がいたのです。その人は大分上の方で見つかりましたし、私達はそのようなもの信じて捜索するようなことはしていません。霊媒師に見てもらうような家族の人もいて、図面を送ってくるのです(笑い)。どこどこの岩の附近にいるとか言ってくるのですが、捜しても見つからないのがほとんどです。
このように不思議なことはあまり無いのですが、平成12年に穴毛谷で抜戸岳の2700m附近からこれまで日本で一番大きいという雪崩が発生して、新穂高付近で土木の作業をしていた人が2人巻き込まれました。幅が200m厚さ7mくらいあり、どこを捜していいか分かりません。ブルドーザーが300mくらい流されてあったので、その付近ではないかとゾンデで探すのですが、1日やっていても見つかりません。夕方頃奥さんが来て「うちの人はここにいるのでここを掘って下さい」と、作業していた近くの窪みみたい所を指すのです。どこを捜すというあてもないので、折角だからと奥さんの言う所を重機で掘ったら出てきたのですね。素晴らしい奥さんでした。私の女房なんかはダメだと思いますが、そういう不思議なことがありました。
もう一つ、双六の山小屋の従業員が小屋に行く途中いなくなったのです。200人近くの人が3日4日と捜し、ヘリでも見る所がないくらい捜したけれど出てきません。最後にお母さんを「息子さんのいなくなった場所を最後に見ませんか」と言ってヘリに乗せました。飛び立って5分もしないうちに「あれは何ですか」と指差されたのです。後で捜しますと、そこに仏さんがいたのです。それが無かったら多分見つけることが出来なかったと思います。お母さんの息子さんを思う一途な気持ちが通じたということで、これも不思議な事でした。
(おわりに)
山は素晴らしい感動があり、私も山を楽しんで山から多くのことを学んでいます。しかしお話ししたように、感動の裏には遭難というものが潜んでいます。山岳会の方は比較的いいのですが、一般の方は山について学ぶという機会が少ないような気がします。あらゆる機会を通じて、山は怖いものだということをお話して知ってもらうことも我々の仕事ですので、そういうことをこれからもやっていこうと思います。悲惨な事故が一件でも無くなることと、日本山岳会岐阜支部のますますのご発展を祈念して、私の話を終ります。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

〔質問〕長野の方で山岳ルートの難易度を決めることをしていますが、岐阜県はどうですか?〔答え〕グレーディングのことですね。長野を中心に関東の方で5県くらいで取り組んでい    ます。安全登山につながるいい事なので、岐阜県も今年からある程度山を選定して    取り組んでいます。私と北飛山岳救助隊の隊長と山岳連盟の木下さんが中心になっ    て、その土地の山に詳しい人に聞いて山の難易度を認定する作業に今取り組んでお    り、近々発表出来ると思います。
〔質問〕山岳警備隊の任務を終えたら、自分で山を楽しむ気持ちはありますか?
〔答え〕個人的に山は好きですから、警備隊を辞めた後あまりみっともないことは出来ませ    んが、楽しい山行をするつもりです。
〔司会〕参考までに、谷口さんには昨年日本山岳会岐阜支部の会員になってもらいました。
〔谷口〕新米ですので、よろしくお願いします。(笑い)
〔質問〕登山届ですが、岐阜県は県警に出しますが、愛知県や三重県でも同じですか?
〔答え〕岐阜県は条例が出来てから登山届は県が管理するようになりました。これまでは最    寄りの署や登山センターで受け付けていましたし、これからもそこで受け付けます    が、最終的には県の方へ送ってそこで管理します。よその県も警察へ出して大丈夫    ですが、県が管理するようになると思います。登山届は県が管理し、警察は遭難救    助と事故防止の方を担当するということになっています。(拍手)
(平成27年11月13日 講演)

谷口光洋さん

1月バリエーション山行(奥越の山シリーズ) 1月バリエーション山行(奥越の山シリーズ)

1月バリエーション山行(奥越の山シリーズ)

高 倉 山 (点名 面谷上、1246.2m 三等三角点)

高倉山は奥美濃を裏から望む標高1246.2m三角点の奥越の山である。

九頭竜湖の南に位置し、箱ヶ瀬橋から南南西に真っ直ぐ伸びる尾根を進むのみである。
6時に箱ヶ瀬橋駐車場に集合。前日の降雪が15㎝ほどある。

その下はすぐ地面であり、今回の雪山は根雪の無い新雪歩きが予想される。

6時20分、まだ暗い中ヘッドライトをつけ出発する。

箱ヶ瀬橋を渡った正面の沢から最短距離で尾根に取り付くことを選択し、沢に向かって左側斜面を登る。新雪に蹴りこむと落葉の地面がつま先に直接あたる。

山高倉山

▲最終到達地点の林の中で参加者の5人
枝につかまりピッケルを地面に突き刺しながら激急斜面を50mほど登ると、アンテナのついた電柱が立つ尾根に出る。

尾根に出ても急勾配は続き、雪のついたユズリハ群落に突入する。

常緑のユズリハの枝葉は当然ながら雪の下になく、先頭を行けば枝葉の落雪をかぶり冷たい。

尾根の734m頭の手前、緩やかになったあたりで太陽の日射し、ヘッドライトを外す。

尾根上に積雪があると言えども全て新雪、サラサラでラッセルは苦にならない。

ただ、立ちはだかる雪上に突き出た落葉低木が鬱陶しい。

それでも、人の丈ほどの低木からの落雪をかぶりながら直進するうちにちょっと嬉しい発見、コツをつかむ。

低木についた雪をはらうと、雪に曲げられた木が伸びあがり進路が開けるし、雪もかぶらない。

これだと思い、ピッケルで低木をつつきながら進む。
734m頭より先は、緩やかな登りが約束されている。

一度コルに降り、コブが二つ続く尾根のあたりからなかなか落葉低木が手強くなってくる。

850mへと標高が上がるとともに多少積雪も多くなり、雪の上に突き出た低木地帯に倒木やらつるやらが混じってくる。

くぐったり体をねじってよけたり。

枝を折って突き進めば、甘いクロモジの香が混じる。

二つ目のコブを越えると、今度は狭い尾根上はヒサカキなどの常緑低木地帯が出現する。

常緑樹は葉に雪がどっさりつき、樹体は横向きに押しつぶされ中途半端に雪に埋まり、邪魔なことこの上ない。

木の無い所に避ければ、膝から腰までの吹き溜まり。

木に登ったり深みにはまったりして突破し、一段落したところでかんじきを付ける。

今までは低木にひっかかるからつぼ足で来たのだが、腰までの新雪にはまると1mのラッセルにぐったりする。
標高1000mぐらいに達すると低木がすっかり気にならなくなり、リョウブに混じって高木が目立つようになる。

立派なナツツバキが出てくる。

尾根の東側は日陰と九頭竜湖からの吹き上げる風とが相まってか雪面も締まり、快適に歩ける。11時20分、登高を止め本日の終点とする。

高倉山三角点頂上の一つ手前、1148mピークの緩やかな登り尾根上である。

周りはすっかりブナ林。樹上にはヤドリギや熊棚がついている。

踏み込めば下層植生はササである。
帰路は往路をそのまま辿る。

常緑低木地帯に降りる手前でかんじきを外し、ツボ足になる。5人もいるので雪面はしっかりと踏み固められており、楽々下山。

840mの二つコブ地点に戻ると、高倉山頂上が左手に頭を覗かせている。

734m地点に戻ったところで、往路をそのまま下るか南寄りの緩やかな尾根を下るかを提案。

結局、往路と同じルートを選択する。

やはり電柱より先、沢に降りる斜面は厳しく、後向きになったりわずかばかりの枝につかまったりピッケルを突き刺したりして降りる。

斜面の踏んだ跡は倒木、落葉、岩、土の地面が露出していた。

箱ヶ瀬橋を渡り、14時20分無事駐車場に戻る。

[鈴木寛人 記]

[日 時] 平成28年1月16日(土)
[場 所] 福井県大野市箱ヶ瀬~同市持穴
[参加者] 今峰正利(L)、鈴木寛人(SL)、白木貞次、那須哲郎、村松哲彦
[タイム] 箱ヶ瀬橋駐車場6:00~6:20-734m尾根頭7:20-1070m地点(1148mピーク手前)
11:20-箱ヶ瀬橋駐車場14:20(解散)
[地 図] 白鳥(岐阜1-4)、越前朝日(岐阜5-2)

海外山行 カムチャッカ半島 アパチャ山( 2741m )

海外山行

カムチャッカ半島 アパチャ山( 2741m )

カムチャッカが外国人に開放されたのは、ソ連が崩壊しロシアになった1991年のこと。

この年に同志社大学山岳会がカムチャッカ半島最高峰のクリュチェフスカヤ山(4835m)に日本人として初登頂している。

そしてアバチャ山が最後に噴火したのもこの年である。

7月22日(水) 前夜投宿の京成成田駅前のホテルの無料シャトルバスで成田空港に着いたのは午前7時前であった。

まもなく横浜からの堀井さんも到着し、添乗員も現れた。

そして添乗員からの一言。

「飛行機がまだ到着しておらず、9時50分の出発は遅れそう」とのこと。

再集合の9時30分まで時間を潰し戻ると、飛行機は12時30分に飛ぶとのこと。

すでに2時間も時間潰ししたのに、まだ3時間も時間潰しをしなくてはならない。
2時間40分遅れで飛び立ったヤクーツク航空は青森上空を通り、およそ3時間20分でエリゾヴォの空港に到着。

着陸直前に見えた近くの山並みの谷筋には雪渓が残っていた。

バラック小屋のような建物で入国審査・通関を済ませ、約20㎞離れたカムチャッカ州の首府ペテロパブロフスク・カムチャツキー(舌噛みそう)の中心部にほど近いレニングラツカヤ通りに面したホテル、その名も「アバチャ」にようやく到着。

南西方向にはバチャ湾も見えている。

すでに20時を過ぎているが、北緯53度なので外はまだ明るい。

経度は日本とあまり違わないのに時差は3時間もあり、日本時間では17時だから当然かもしれない。

7月23日(木) 朝から雨がしとしと降っている。

市場の10時開店に合わせ9時45分にホテルを出発。

6輪駆動の軍用トラックの荷台を十数人が座れるように改造したバスに乗り込む。

市場内は魚介類、肉類、野菜類、果物類などのブースが分かれていて、いずれも豊富に並んでいる。

しかし野菜などは中国からの輸入物が多いらしい。

ここで目を惹くのはなんといってもサケやイクラなどである。

イクラのどこに差があるのか見当もつかないが、安い物と高い物では倍ほどの差がある。

さらにスーパーマーケットに寄ったが、こちらは日本のスーパーと変わらない感じである。

店内は閑散としているが、時間帯によっては混むのであろうか?
いよいよアバチャのベースキャンプへと向かう。

エリゾヴォ方面に向かって30分ほど走り脇道に入ると、すぐに未舗装になる。

それも束の間、干上がった川の荒れた河原を走るようになり、雪渓を横断したりもする。

2時間ほどで標高800mのアバチャ・ベースキャンプに到着。

多くのコンテナハウスが食堂を取り囲むように並んでいる。

コンテナ内には2段ベッドが置かれていて、8人が泊まれるようになっている。

雨は止んだものの、アバチャ山はガスに姿を隠したままである。
遅目の昼食を摂り、午後3時キャメル山へ足慣らしに出かける。

キャメル山はその名の通り二瘤ラクダの背のような高さ1200m程の岩山で、アバチャ山とコリャーク山(3456m)の鞍部の少し手前にある。

アバチャ山への道標を見送り、やがて雪渓に出る。

今年は雪解けが遅いらしく、そこかしこに雪渓が残っている。

アバチャ山の大きな裾が見えるようになるが、頂にはまだ雲がかかっている。

キャメル山直下の雪渓を登り、上流側の山裾を回り込むようにして、裏側から最後は砂礫を踏んで瘤の間に登り着く。

低いほうの瘤に登ると、眼下に辿って来た雪渓と、その先遠くにベースキャンプが望めた。

下流方向に砂礫の尾根を下って、登って来た雪渓に出会い、往路を辿って6時頃ベースキャンプに戻って来た。
夕刻、といっても10時頃であるが、夕日に照らされたアバチャ山頂が姿を現した。

噴煙が真横に流れていて、山頂は風が強いようだ。コリャーク山の山頂部分はまだ姿を隠したままであった。

7月24日(金) 快晴である。

アバチャ山の肩から太陽が顔を出す。

噴煙は真っすぐ上がっており、風も無いようだ。

コリャーク山も中腹に薄い雲が掛かっているものの、山頂は姿を見せている。

久野さんはガイドと共にフラワーウォッチングに出かけることになっており、残る11人が登山ガイド3人、通訳、添乗員と共に6時前に出発する。

行程中唯一の道標に従い、キャメル山への道と分かれて砂礫の比較的緩やかな登山道を行く。

標高1000m位であろうか、キャメル山が真横に眺められるようになる頃から道は傾斜を増す。

標高1700mで外輪山に出る。

キャメル山は眼下になり、その後ろにコリャーク山の優美な姿がある。

その斜面に残雪がユニークな文様を描いている。
ところどころ残雪を踏みながら外輪山を辿り、標高2200mの避難小屋に着く。

アバチャ山の山体は鉄分を多く含んでいるのか、雪のない箇所は赤茶けた色をしている。

上空に少し雲が広がり始めたが、噴煙は相変わらず真っすぐ上がっている。

ここで昼食。といってもクラッカーやリンゴ、チョコレートなどである。

山水谷・コリャーク山を背にアバチャ頂上直下を登る

▲コリャーク山を背に登る
大きな雪渓を横切り、いよいよアバチャ山火口を目指しての長い急登が始まる。

ここで残念なことに堀井さんと三宅さんが足の故障のため下山することになる。

赤茶色の火山礫の急登は足元が不安定で体力の消耗が激しい。

さらに上部では火山礫の下が凍っている。

アイゼンを付けるのも面倒なので、すぐ横の残雪を直登する。

火口縁直下ではロープが張ってあり、これを掴んで登り火口縁に達する。なんと足元から蒸気が出ており、硫黄臭がする。

山水谷・コリャーク山を背にアバチャ山頂にて

▲アパチャ山頂上で登頂した9人
日本なら絶対立ち入り禁止のはずだ。

反対側の火口縁は台地状になっており、残雪の中に黒い溶岩があちこち顔を覗かせる奇怪な風景である。

火口縁を歩き、10分ほどで最高点に着く。

空は快晴であるが、谷間には雲が漂っている。南東に雪稜が続きその先にコゼーリ山(2189m)の頂が望める。

穏やかなこの日はアメリカ人の団体、日本人の団体(同じツアー会社の別グループ)、上海からのカップルなど数十名が登頂を果たしたであろう。
普段は富士山の砂走りのように下山するらしいが、今年は残雪が多く主に雪渓を下る。

避難小屋の少し下で外輪山から離れ、雪渓を横断して尾根筋を下る。登った隣の尾根である。

かなり下ったころ大きな雪渓に出る。

スキー場のような斜面の雪渓を下り、ようやくキャメル山からの雪渓と合流する。

午後7時、ようやくベースキャンプが見えると、久野さんが手を振っている。

あとから出たパーティが次々と先に帰って来て、あまりの遅さに待ちわびていたそうである。
夕食は添乗員特製のイクラ、サケ、タラバガニの海鮮丼! 昨日の市場で仕入れてきたらしい。

現地の料理も美味しいのであるが、新鮮な海鮮丼は皆の舌を満足させるものであった。

7月25日(土) 今日も快晴。

ベースキャンプではジリス(マーモット)が走り回ったり、日向ぼっこをしている。

コンテナハウスの下に棲み付いているらしく、人慣れしていて食べ物を差し出すと、立ち上がって両手(?)で受け取って食べている。
改造バスでベースキャンプをあとにし、ヴァチカゼツ山麓へ。

今日はフラワーウォッチングである。

緯度が高いだけに高山植物(日本での)が其処ここに咲いている。

さらに標高わずか1556mのヴァチカゼツ山にはカール地形もある。

花も景色も良いのだが、蚊を中心にやたら虫が多く、防虫剤や蚊取り線香ではとても役に立たず、防虫ネット必携である。

専任のフラワーガイドが説明してくれるが、花の種類が多すぎてとても覚えきれない。

ただミヤマ○○やエゾ○○がチシマ○○となる花も多くある。

その中でも驚きとともに人気があったのは大きな群落をなすキバナアツモリソウである。
今日はランチのために料理人付きで、フラワーウォッチングから戻るとサンドイッチをメインにしたランチパックが用意されていた。

たた虫が飛び交う中での食事は落ち着いて食べれたものではない。

昼食後はエリゾヴォのスーパーマーケットでお土産の買い物。

そしてバラツンカ温泉へ。

ホテルからは徒歩5分ほどのところにあるが、温泉とはいっても日本と違い、水着着用の温水プールのようなもの。

夕食時、添乗員から重大発表が! 明日搭乗予定の飛行機がまだ到着しておらず、明日の時間通りの出発は難しいと。

7月26日(日) 朝食時の皆の関心事は我々が搭乗する飛行機。

案の定まだ到着しておらず、チェックアウトの12時まで時間を潰すことに。

温泉に行く人、周辺を散策する人等々。

私は部屋で読書をして過ごす。予定では12時30分に飛行機が飛び立つことになっているのに、12時からホテルのレストランで昼食。
飛行機が来ないことはないだろうとのことで、とりあえず空港に向かいバスで待機することに。

空港の駐車場からは、滑走路の向こうにコリャーク山とアバチャ山が見えている。

ヤクーツク航空機が2機駐機しているが、どこへ向かう飛行機かは不明。やがてその1機が成田行きと分かり、ようやく帰国の目途が立った。

しかし貰った搭乗券には、搭乗開始11時50分、出発19時の7時間遅れになっている。

ということは成田着が19時50分。

入国審査、荷物を受け取り通関して、その日の内に家へ帰れるのか?

みな新幹線などの時間を調べ始めることに。

ヤキモキした一日であったが、飛行機は18時15分に出発。

成田で荷物も受け取ると挨拶もそこそこに帰宅の途に。
山行中は天候に恵まれ、登山もフラワーウォッチングも十分に楽しめて目的は果たせたが飛行機にヤキモキさせられる5日間でした。

[水谷 透 記]

[参加者] 久野菊子、高木基揚、高橋美江子、竹中佳美、長屋桂子、林 靖子、藤井法道
藤田純江、堀井昌子、水谷 透、三宅一正、他1名

12月例会山行 納 古 山 (632.9m 二等三角点)

12月例会山行

納 古 山 (632.9m 二等三角点)

納古山は川辺町下麻生の北に聳えるゴツゴツした男性的な山。

難度の異なるいくつかのルートがあり、非常に人気の高い山で当支部でも何度か登っている。
集合場所は道の駅「ロック・ガーデンひちそう」。

隣接して「日本最古の石博物館」がありよく間違える。今回もあちこち捜し回った。

最初の予定では、木和谷林道を終点まで行き町境稜線を南下する一番平易なルート(ヒーリングコース)で登り、状況を見て中級ルート(アドベンチャーコース)を下るつも りでいた。

納古山

▲納古山頂上で参加者一同
ところが、道の駅での打ち合わせで逆にしたらどうだろうという提案があり、確かにその方が理にかなっている。

リーダーの私は簡単にその提案に乗ってしまう。
木和谷林道のアドベンチャーコース登山口周辺に車を止める。

既に何台か止っており、駐車場所を暫く探し回った。

最初は谷筋の道で、尾根に取りつく所で一本。尾根の登りでは、高齢の影山さんを気遣いゆっくりゆっくり歩むが、それでも少し速かったかな。

こまめに休みを取りながら高度を上げていくと、岩場が出てくる。以前に下った時はそれ程感じなかったが、なかなか面白い。

どこに出しても恥ずかしくない中級の岩登りルート。

当然登りの方が安全なので、コース変更は正しかったということになる。
天気は良いし風もない。

気持ちよく登って頂上。

あちこちにベンチが設けられているがほとんど満席、さすが納古山である。

ようやく一隅のベンチを確保して昼飯タイム。

そして北へ平易な尾根を下っていく。

途中で「塩の道」というのが山腹をトラバースして合流してきた。七宗町上麻生から同町神渕へと行く昔の交易路である。

いろいろな道を復活しているのだなと感心する。
稜線から離れた木和谷の道は植林帯の陰気な道。

意外に長く、嫌になった頃林道の終点に着く。

車の運転手はそれからさらに林道を一歩き。

と言っても大した距離でなく、ほぼ予定通り道の駅に戻り解散した。

疲れた影山さんを車で送り、そのまま下道を走っていたら途中に「パウゼ」がある事に気づく。

そこで写真展を見て帰宅、それなりに面白く有意義な一日だった。

[堀 義博 記]

[日 時] 平成27年12月13日(日)
[場 所] 岐阜県加茂郡川辺町下麻生、同七宗町神渕 境
[参加者] 影山英雄、白木貞次、白木しづゑ、竹中美幸、野田紀子、林 靖子、堀 義博、馬淵 等、村松哲彦
[タイム] 道の駅「ロック・ガーデンひちそう」発9:00=木和谷林道車止め9:10~9:15ー納古山頂上11:20~12:05-木和谷林道終点13:30~13:50(車回送)=道の駅14:05~(解散)
[地 図] 上麻生(飯田15-4)

11月バリエーション山行 雨 乞 岳 (1237.7m 三等三角点)

11月バリエーション山行

雨 乞 岳 (1237.7m 三等三角点)

大垣市上石津地域事務所に6時30分の集合でしたが、すでにここに参加される方は集まっていた。

車の乗換えをして国道365号線を南下し、三重県いなべ市に入り「黄金大橋南」の標識の所で国道306号線をさらに菰野町を目指して南下した。

途中右手方に烏帽子岳の他藤原岳、竜ヶ岳、釈迦ヶ岳等鈴鹿セブンマウンテンと称せられる山々の姿を見ながら比較的に早く国道477号線との交差点「菰野」に差し掛かった。

近鉄湯の山線に沿って「道の駅菰野」に7時17分に到着、予定より1時間ほど早かった。

東雨乞岳

▲東雨乞岳頂上で参加者一同
下見の時は昼間だったので、今日より1時間以上時間がかかったのだ

。駐車場には他県の車が多く、紅葉の季節の影響だと思われた。
みんなが持ち寄った食料で軽い食事をしながら、まだみえない会員を待った。

結果的には予定通りの時間に出発となった。

湯の山温泉方面へ西に向かい、鈴鹿スカイラインに入って武平峠のトンネルを抜けると左側に駐車場があった。

が、すでに登山者のマイカーで溢れていたので、仕方なく反対側の路肩に3台止めた。

登山口の近い所であつたが、周辺は黄、赤の鮮やかな紅葉の様子を見ることができた。
身支度をしてから出発。雨乞岳の道標の矢印に沿って伐採された檜の植林帯の山腹を巻きながら登っていく。

登山道は分かりにくく赤白のテープを頼りに登るが、雑木の混じった道は崩れかかったりしてアップダウンを繰り返す。

小さな谷を横切って尾根を超えると沢谷峠で、案内板もなく通り過ぎて沢谷にでた。ここからは自然林に覆われ少し様子が変わり、クラ谷分岐に出会う。

そこは、割合に平坦で炭焼き窯跡と思われる所で皆さんからお菓子や果物をいただき一休み。

三叉路になっていて、右手はコクイ谷方面で最近登山道は荒れているらしい。

我々は、左手の小さな尾根を超えるとクラ谷にでる。何かと薄暗いが源流を登り詰めると滝にでた。

1000mを超える頃から前方が明るくなり、谷が広くなると落ち葉が敷き詰められた尾根から七人山とぼんやりした雨乞山かみえてきた。

途中なめこが生えている雑木林を見つけ取ろうとしたが、手間がかかったので帰りに取ることにした。
東雨乞岳への道はけっこう急坂で、息がきれるがなんとか登れた。

ここで一休みを取り記念写真を撮った。

周りの展望は良く視界も良かったがそれもつかの間、この時天候が怪しくなりガスがかかつてきて視界が悪くなった。

雨乞岳への取り付きを間違え、引き返して山頂を目指した。

夏場は笹が生い茂っているが、今回は掘り割りの道を駈け上がった。

山頂は狭く三角点に触れたが、けっこう沢山の人が登ってきたので即座に降り、景色や展望はやはり東雨乞岳の方が良かった。

ここで30分ほど食事や休憩をとった。

帰りは「東近江山岳遭難対策協議会」の看板⑨~①を確認しながら武平峠の駐車場まで降り、ここで解散となった。
[高木基揚 記]

[日 時] 平成27年11月22日(日)
[場 所] 滋賀県甲賀市土山町、同県東近江市甲津畑町
[参加者] 今峰正利、苅谷敬三、小林和男、後藤 允、白木貞次、白木しづゑ、高木基揚、竹中美幸、竹中佳美、林 靖子、馬渕 等、三宅一正
[タイム] 岐阜5:20=大垣市上石津地域事務所6:30=道の駅菰野7:20~8:30=武平トンネル滋賀県側登山口8:45~8:55-クラ谷分岐10:00-東雨乞岳11:25~11:35-雨乞岳頂上12:15-東雨乞岳12:35~        13:10-登山口15:20~15:35=道の駅菰野15:55=岐阜18:10(解散)
[地 図] 御在所山(名古屋10-2)

11月例会山行 金糞岳(1317m 三角点なし)~ 白倉岳(1270.7m 二等三角点)

11月例会山行

金糞岳(1317m 三角点なし)~ 白倉岳(1270.7m 二等三角点)

金糞岳とは変わった名前です。岐阜新聞社発行の「岐阜100山」では、「金糞とは鉱石を溶錬する際に生じる滓(かす)を言うのであって、金屎(かなくそ)とするのが正しい」とあります。

屎は精錬の際に生じる「かす(くそ)」を言うことのようです。
11月例会だから紅葉がすばらしい! と言うことでしたが、山の紅葉は終わっていて残念でした。

でも、途中の林道ではきれいな紅葉を楽しむことができました。

金糞岳・集合写真

▲白倉岳頂上で参加者一同
道の駅藤橋に7時50分集合。

鳥越林道の登山口へ向かい、途中の紅葉を楽しみながら登山口に到着しました。

駐車場に博多ナンバーの車が! 途中で車の持主に出会ったので聞いてみると、「この山は関西100名山だから登っている」とのことでした。

我々は岐阜県の山と思いがちですが、滋賀県境にあるので滋賀県の山、関西の山としても有名なようです。
8時45分に登山口を出発。

紅葉は終わっていましたが、好天に恵まれて素晴らしい眺望を楽しむことができました。

早くも白く化粧をした白山と別山、能郷白山に蕎麦粒山、他にも美濃の山々の眺望を楽しむことができました。
登山口から1時間10分で金糞岳頂上に到着。

10分ほど休憩をして白倉岳へ向かいます。

琵琶湖の眺望を楽しみながら30分ほどで白倉岳頂上に到着しました。

そこで楽しいランチタイムを1時間ほど過ごして金糞岳へ戻りました。
途中の登山道に白い石があり、物知りの方に訪ねてみると「ドロマイト」とのことでした。

帰ってから調べてみると、ドロマイトの用途の一つに「鉄鋼精錬用」とあります。

金糞岳の山名由来に関連している出来事が増えて、ビックリでした。
午後1時に登山口に戻り道の駅藤橋で解散、今日一日の楽しい山歩きを終えました。
[後藤 允 記]

[日 時]  平成27年11月1日(日)
[場 所]  岐阜県揖斐郡揖斐川町坂内、滋賀県長浜市高山町 境
[参加者]  藤田純江(L)、小林和雄、小島孝子、後藤 允、下畑佐和子、高橋美江子、竹中美幸、那須哲郎、野田紀子、林 靖子、馬淵 等、水谷 透
[タイム]  道の駅藤橋7:50=登山口出発8:45-金糞岳頂上9:55~10:05-白倉岳頂上10:35~11:30-金糞岳12:05~12;10-登山口13:00~13:15=道の駅藤橋14:00(解散)
[地 図]  近江川合(岐阜11-4)