山行報告書
山行名 リハビリ登山
山 名 三井山
山 域 各務原市三井山町
日 時 2018年11月18日
参加者 岐阜支部:古田、竹中美、神山、小島、下畑、高木、長屋、杉山、林靖、山田
被補助者:5名 子供1人 合計 16名
罹患症状 認知症、脳梗塞、下肢人工関節など、軽度から重度まで。
山行内容 今回も対象者1人に1~2名の担当を決め、余の者が適宜サポートに回るなどして、参加者全員が登頂、安全に下山できた。 好天に恵まれ、途中の東屋ではフルートに合わせ合唱、山頂でお弁当を開き楽しく登山ができた。 この日は航空祭で辺りの道路は車と人であふれ、登山道にも行きかう人が多く、避けながらの行程となった。余禄ながら青空の航空ショーも見られた。
記 録 古田
写 真 神山
カテゴリーアーカイブ: 山岳講演会
山岳講演会 [演 題] 黒部横断2014 - 十字峡を越えて八ツ峰へ - [講 師] 立山ガイド協会会長 上田 幸雄 氏 (平成28年11月11日 講演)
山岳講演会
[演 題] 黒部横断2014 - 十字峡を越えて八ツ峰へ -
[講 師] 立山ガイド協会会長 上田 幸雄 氏
支部長挨拶と講師紹介
皆さんこんばんは。日本山岳会岐阜支部の支部長をしています高木です。今年で43回目となりますが、これから山岳講演会を始めます。昨年は飛騨方面の岐阜県警山岳警備隊の話でしたが、今回は上田幸雄さんをお迎えして「黒部横断2014」というタイトルでお話ししていただきます。
日本山岳会では毎年「山岳」という本を発行し会員に配布しています。その15年度版にこの記録が載っていまして、すごいなと感心しました。それで富山支部の山田支部長に電話して上田さんを紹介してもらいまして、今回の講演となったわけです。
上田幸雄さんは1967年愛媛県のお生まれで49歳、まだまだお若い方です。職業は日本山岳ガイド協会認定の山岳ガイドで、立山ガイド協会に所属しています。
略歴ですが、高校までは登山に関係のない生活を送ってきました。北海道の帯広畜産大学に進んで山岳部に入り、4年間北海道の山に通ったということです。その後、富山県に移り住んで、地元の山を中心に登山活動を続けてきました。中でも剱岳を核とした黒部横断に魅力を感じ、年末年始を中心に長期登山を行ってきました。
これまでの主な長期登山としては、立山~槍ヶ岳単独行、硫黄尾根~槍ヶ岳~北鎌尾根単独行、鹿島槍~十字峡~源次郎尾根、扇沢~針ノ木峠~平の渡し~ザラ峠~千寿ヶ原を14時間でスキー横断、扇沢~黒部別山第一尾根~立山、ブナ立尾根~水晶岳~上ノ廊下横断など幾多の厳冬期の登山をしてこられました。それでは、厳冬期の風雪やラッセルのことなどお話ししていただきます。
上田幸雄氏の講演
皆様はじめまして、よろしくお願いします。上田といいます(拍手)。こんな大勢の人の前で話すのは何年かに1回ということで、非常に緊張しています。口も上手く回らず聞きにくいこともあると思いますが、1時間半の間よろしくお願いします。
私の略歴については先ほど高木支部長が話された通りですが、ガイドとしては5、6年しか経験がありません。それまでは会社で働きながら山に登っていて、25歳頃から黒部横断に取り組みました。何がきっかけだったかというと、和田城志さんという登山家がおり、和田さんが書かれた文章を読んで、地元の劔岳がすごい山だということを知り、僕も和田さんのような登山をしたいと思い取り組んだのです。今、49歳ですから25年程取り組んでいて、実際に横断したのは12、3回くらいですから、大体2年に1回の割合です。
今回お話しするのは、2014年の年末に行った横断です。ざっと大体のコースを説明しますと、大町の日向山ゲートから歩き始め、扇沢から岩小屋沢岳の新越尾根を登ります。岩小屋沢岳の北西尾根を十字峡に向けて下り、十字峡で黒部川の本流を渡ります。その後、黒部別山北尾根を登り、劔沢に降りて、八ツ峰Ⅰ峰のⅢ稜に取り付きます。そして八ツ峰を縦走して劔岳に登り早月尾根を馬場島に降りました。メンバーは澤田実、成田賢二、中島健郎、そして私・上田幸雄の4人、私が最年長です。この時の計画は実働14日間、予備日10日間、合計24日間でしたが、実際は12月19日から29日までの11日間で登っています。
日向山ゲートを35㎏前後の荷物を担いで出発しました。新越尾根は雪が締まっていてほとんどラッセルが無く、アッという間に岩小屋沢岳の頂上に着きました。本来なら後立山の稜線に出ると正面に劔岳がバーンと見えて、何て遠いのだろうと絶望的な気分になるのですけれど、今回は幸いなことにガスっていて見えませんでした。
その先、岩小屋沢岳の長い北西尾根を下っていきます。正面に2000mちょっとの黒部別山が立ちはだかり、その間に黒部川が急激に切れ込んでいます。黒部別山の裏側に劔沢が食い込んでいて、その向こうに劔岳があります。劔沢の奥には劔沢大滝という幻の大滝があるのですけれど、僕は見たことがありません。北西尾根の末端は鋭く切れ落ちていて、その真下に十字峡があります。
テント生活の話をしますが、今回は本体+外張りと二重にしています。シングルで使っている人もいますが、保温性とかを考えると多少重くてもやはりダブルウォールにして使うようにしています。自然破壊と言われると困るのですが、樹木がある所では雪をならした後に木の枝葉を敷き詰め、その上にテントを張ります。そうすると断熱効果があります。皆さんも経験があると思いますが、雪の上で生活しているとどうしても真ん中がへこんでくるのですね。こういう所では出来るだけ快適に生活出来るように工夫しています。ノコギリは必携です。藪がひどい所では荷物が引っかからないように、先頭は邪魔になる枝を切り払いながら進みます。
冬山を始めた学生の頃は、テントの中でアウター(ナイロンヤッケ)は着っぱなしでいました。先輩達がそのままでいたので、考えなしに着ていたのですが、テントの中でストーブを焚いても濡れたアウターは全く乾かないのですよね。燃料が有り余るほど有れば別ですが、そんな余裕はありません。濡れたアウターは翌日の行動の時になると凍るのですから脱いでしまいます。薄着になり肌着を乾かしてから、ミッドウェアを着ています。
もう一つテント生活の話をしますと、ナルゲンという水のポリタンクを持っていきます。折りたためて小さくなるものでプラティパスもありますが、何故ナルゲンの方がいいか分かりますか? 男性だったら分かるということで、その先は言いません(笑)。
話を戻しまして、北西尾根の末端に来ました。尾根の末端は急に落ち込んでいますので、懸垂下降をすることになります。60mのロープを使っていますが、2本繋いで使うと結び目が藪に引っかかったりして回収出来なくなる可能性があるので、1本のロープを半分に折り返して30mで使っています。最後だけは、どうしてもアンカーがとれなかったので60m一発で降りています。荷物が重いので、担いだままで懸垂すると身体が後ろに持って行かれてしまいます。それで荷物の重さも下降器に加重されるシステムにして降りています。
雪稜の懸垂下降でアンカーがない場合は、土嚢袋に雪を入れそれを埋めてアンカーにします。消防団とかで使っている砂を入れたりする土嚢袋ですが、60㎝×90㎝くらいのちょっと厚めで大きいものを1人1枚くらいずつ持って行きます。それはテントの中で荷物を整理するときにも使いますし、水を作るための雪を入れておくとか色々使えます。
この時期は十字峡の200m上流にスノーブリッジが出来て、本流を渡れるのです。何年か前にここを通った僕の友人から「ここにスノーブリッジが出来るから渡渉しないで渡れるよ」と聞いていたので、今回このポイントを選んだのです。けれど懸垂を始めた時は下が全く見えません。大分降りてからやっと見えてくるので、降り始めのポイントを間違えると、そこに降りられなくなります。すると登り返すという事態になるのですが、今回は見事にピンポイントでスノーブリッジに降り立つことが出来ました。
スノーブリッジを渡って反対側の斜面を登ります。この日は雪が降っていたので上からチリ雪崩がドンドン落ちてきます。けれどそこで怯んでいては家に帰れなくなりますから、登るしかありません。かまわず登って行きますが、雪もドンドン降ってすぐ積もってしまうので、あまり長く居たくない所でした。
悪場を登り終えて一安心して、雪の十字峡を見に行きましたが、やはりすごい所ですね。左から劔沢が入ってきて、 (撮影 中島健郎氏)
向かい合って右から棒小屋沢が本流に入っています。左側の劔沢に架かっている吊り橋は雪が2mくらい積もっています。棒小屋沢の向こうに鹿島槍からの牛首尾根が降りてきて、2~3月になると本流にスノーブリッジが出来て渡れるのですが、この時期は出来ていません。
皆さんご存知だと思いますが、佐藤祐介達は敢えてスノーブリッジが出来ない時期とか出来ない場所とかで渡渉しています。一応カッパとかを着ているそうですが、全裸になって腰や胸までつかって本流を渡渉しています。衣類は防水のスタックザックに詰めて反対側に渡ります。そしてロープで衣類を引き寄せ着替える、ということらしいのです。
次の日から怒濤のラッセルが始まりました。十字峡までは大したことなかったのですが、この先は頭の上まで雪があります。傾斜の影響もありますが、平坦な所でも胸まではあります。そうして黒部別山の北尾根を登り、北峰に近付きました。このあたりまで来ると黒部ダムが見えます。ということは携帯電話が通じるということなのです。十字峡の辺りは電波は全然通じません。
ラッセルの話をしますと、1人目・2人目はただラッセルするだけです。3人目くらいから足場となる雪が固まってきます。荷物を置いてラッセルしてロープを張って、また戻って荷物を担ぐという作業を延々と繰り返します。澤田さんは黒部横断は水平のビッグウォールだと表現しました。面白いなと思いました。派手さは無くただただ忍耐です。泥臭い、雪の上ですから泥は無いのですが(笑)、泥臭い登山です。
ちょっと疲れてきました。どなたか質問有りませんか?
Q;食糧は主に何を食べていますか?
A;そうですね、基本はアルファ米です。大体1人1日300gにしています。朝150g・夜150 gと2回に分けて食べます。それに味付けにふりかけとかスープ類みそ汁等ですね。スペ シャル的な感じではペミカンです。昔はラードでコテコテに固めていましたけれど、今は 普通にジャガイモとかニンジンと一緒に炒めています。それをおにぎりみたいにして持っ ていき、鍋にぶち込んでカレーとかで食べます。
やはり、お腹が一杯にならないと動けないし、食事がまずいと楽しみが無いのですね。 2週間くらい山にいると、我慢だけじゃすまない部分というのがあるので、出来るだけお 腹が満たされるだけの量を持っていくことにしています。最近では真空パックのチャーシ ューとかベーコンとかの肉の塊を持っていくとかしています。
昔、お酒は持って行きませんでした。酒持っていくなら米持っていけ、という考えだっ たのです。実は酒は好きで、飲むと暴れるので気をつけて下さい(笑)。ここ何年かは酒も 持って行ってます。当然最後までは無いのですけれど、少し楽しみがあるとテント生活も 豊かになります。
というところで、いきなり劔沢まで降りて来ました。劔沢を渡ります。夏は橋が架かっていますし、もう少し雪が降ると劔沢の本流も雪で埋まってしまうのです。これから八ツ峰のⅢ稜に取り付きます。八ツ峰は普通に登っても末端から4,5日くらいかかるのです。僕は八ツ峰を登るのは2回目で、前回は20年ほど前ですけれど、凄く天気に恵まれてラッセルがほとんど無く、Ⅳ稜から頂上まで4日かかりました。今回の天候とか雪の状態だとそれ以上かかるかなという話をしていました。
八ツ峰はその後に2回計画したのですが、先の天気が悪い予報だったので突っ込まずに逃げて、立山の方へ登る眞砂尾根という簡単な尾根を登って帰ってきました。今は携帯で天気予報が分かります。ラジオは昔からありましたが、情報量が違います。外れることもありますが、気象庁などの予報はある程度正確です。
けれど、それにあまり頼りすぎると、天気が悪いから止めようかということになってしまう。そこが難しいところです。折角休みをとって、食糧は10日分も予備を持って、重い荷物を背負ってここまで来たのです。何の為にここまで来たのだという思いがあるので、今回は逃げないで行ってみようという気持ちでした。取り付く前の予報では明後日から2日間くらいは良いということだったので、それを信じて取り付くことにしました。
天気は期待通り良くなってきたのだけど、目の高さまでのラッセルが続き、なかなか進まないのです。ただ、良かったのは4人という人数です。これまで大体3人が多かったのですが、今回は4人という人間が揃ったということで、ラッセルの負担も減ったしそれなりにスピードもあがったということです。
八ツ峰は劔岳北方稜線の「八ツ峰の頭」から別れ、順にⅧ峰からⅦ、Ⅵ、Ⅴ、Ⅳ、Ⅲ、Ⅱ、Ⅰ峰と降りてきます。末端のⅠ峰でも2500mくらい有り、写真を見れば分かりますが、木など一本も立っていないのです。Ⅰ峰から劔沢に向かってⅠ稜Ⅱ稜Ⅲ稜Ⅳ稜と枝尾根が出ていて、そのⅢ稜に僕達は取り付きました。
取り付いた次の日の昼過ぎにⅠ峰に到着しました。登る時はアンザイレンで皆繋がっています。ロープの末端はどうなっているかという疑問を持たれた方もいると思いますが、実は末端はザックに括り付けているだけなのです。雪に穴を掘ってアンカーとったりする時間が無いので、ラストのザックに括り付けてアンカー代わりにして、皆ロープに繋がっています。何かあったら反対側に落ちるという方式で登っているのです。一蓮托生というやつですね。
Ⅰ峰から振り返ると、延々とラッセルの跡がついています。自分達がつけたトレースしか無い。良く頑張ったなと思います。それを見るのが冬山の醍醐味ですね。振り返って、あぁまだこれだけしか登っていないとガッカリすることもあります。昼頃になっても昨晩のテントの跡が見えて、たった数百mしか登っていない。「絶望感」、これがいいのです。
この日から翌日は素晴らしい天候で、周囲の山は全て見えます。1週間以上かけて苦労して登ってきたけれど、これだけの景色を見ることが出来れば、それだけの価値はあります。
Ⅰ峰から本来なら次にⅡ峰へ登るのですけれど、かなり鋭いナイフリッジになっていて非常に時間がかかることが予想されました。それでⅡ峰はトラバースすることにしました。雪崩れてもおかしくない斜面ですが、安定していると判断して入りました。皆ロープ (撮影 中島健郎氏)
に繋がっていますが、全く意味が無いですね(笑)。結局Ⅱ峰は巻いちゃいました。
Q;雪崩は大丈夫だと判断した根拠は何でしょうか?
A;Ⅰ峰へ取り付いてみて、雪を踏んだ時の感触ですね。それと1週間山に入っていたのだ から、その間の雪の降り方を知っています。それらを総合的に考え判断しています。
Q;写真を見ているだけでも怖くて仕方ないですね。
A;だから念のためにロープをつけているのです(笑)。
Q;八ツ峰にテント場の適地はあるのでしょうか?
A;夏でないので八ツ峰にテント場はありませんし、お金もいりません(笑)。というのは冗 談ですが、過去の記録から大体このあたりが適地だと分かっています。僕自身も1回登っ ているので大体の見当はつけていたのです。けれど、記録に残していれば別ですが、人間 の記憶というのは曖昧なものです。自分の都合のいいように考えているので、行ってみて アレッということが多いです。
一般的にテントの設営は現場判断のことが多いですね。時間と天候とかの兼ね合いです。その日の天候と次の日の天気予報によって行動をどうするか、それじゃ今日はこの辺で止めようかとか考えます。例えば次の日の天気が悪い予報の時、樹林帯の中の風の弱い所で安眠出来るように考えます。行動する時に条件が悪いのは仕方ないですけれど、テントで休む時は出来るだけ楽したいですからね。ただ八ツ峰に入っちゃえばそういうことも出来ませんから、運を天に任せるしかないのです。幸い今回は天候が良くて、僕たちは恵まれていました。
雪洞を掘れば風とか降雪の影響が少なくなります。ただ雪洞を掘るにしてもタイミング的にいい場所が無かったと思います。雪洞を掘るには時間がかかるし労力もかかる。ウェアも濡れるし大変なのです。だから雪洞は嫌だという人も多いのです。
雪洞の中は気温自体はそんなに低くはならないけれど、雪洞内で火を焚いても中の気温が上がらないので寒いのです。冷え冷えするのですね。だから僕たちは中でテントを張るという前提で雪洞を掘ります。4人用の雪洞なら2m×2mくらい掘れば何とか寝られるのですけれど、テントを張る場合、作業スペースなどもいるので、より大きく掘らなければなりません。高さも勿論そうです。そのかわり非常に快適です。風の影響も無く、テントの中でストーブを焚くと熱帯です。
八ツ峰もⅤ峰、Ⅴ・Ⅵのコル、Ⅵ峰と越えていきましたが、Ⅶ峰はかなりのナイフリッジになっています。それを越えてⅧ峰とのコルまで来ましたが、この先の悪天が予報されているので、とにかく早く下山しようというこになり、コルから降りて長次郎谷を登りました。そしてⅧ峰と八ツ峰の頭は巻いて池ノ谷乗越に出ました。ですから八ツ峰は完全には歩いていないことになりますが、すでにⅡ峰を巻いていますから、その時点で完全縦走ではなくなっていたのです。
そうして剱の頂上に着きましたが、まだ大きい荷物を担いでいます。予備日を入れて24日分の食糧を用意して、半分の日程も消化していない。順調に進んできているので食い減らしをしようと思うのですけれど、人間は不思議なもので少ない食糧になれてくると胃袋が小さくなってあまり食べられなくなるのです。 (撮影 中島健郎氏)
頂上に着いた時は夕暮れになっていました。富山湾の向こうに能登半島が連なっています。何処まで陸地なのだと思うほど延々と連なっています。
クリスマス頃に入った学生達のトレースも少しは残っていたので、その日のうちに早月小屋まで降りることにしました。当然夜になりますが、天気にも恵まれ富山平野の夜景を眺めながら降りるというナイスな夜でした。吹雪いているとヘッドランプではとうてい歩けません。そして次の日、麓に降り立ち、富山湾のベニズワイガニで祝杯を上げたのです。
以上で黒部横断の話を終わりますが、後は質問を受けたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)
Q;雪山の醍醐味はラッセルだと思います。スノーストックを使っていると思いますが、具 体的に手順を教えてください。
A;そうですね、ストックも使っています。雪は足下に崩して踏み固める。踏み固めるには 余るほど量が多い時は、傾斜を利用して脇から下に流して落とします。とにかくトップは 前へ進む、それが仕事です。二人目がそれを固めて歩けるようにする。ラッセルの高さに よっても違いますが、目の高さほどの雪だとやはり二人がかりでやらないと難しいですね。
Q;時間的にトップはどれくらいで交代しますか?
A;年令に反比例します(笑)。というわけでもありませんが、やはりポイントというのがあ ります。それに、その人の体力とかザックを置く場所とかメンバーの位置関係のタイムラ グによっても変わります。
トップは自分の判断で替わりますが、実はトップが一番楽なのです。いや、二番目かな。 とにかく荷物を持っていないですから。荷物を持っているのが一番えらいですから、出来 るだけ空身で楽をしたいのです。それで、皆競ってトップを行きたがります。
Q;冬の劔では3日以上晴天が続くことはないと聞いていましたが、今日のお話や写真を見 れば、かなり天気は良さそうに感じました。このように良い時もあるのでしょうか? 最 近は気候も変わってきたように思いますが、実際の天気具合はどうだったのでしょうか?
A;基本的なことですが、天気の良い時しか写真を撮っていないので、そう感じられると思 います(笑)。というのは冗談ですが、確かに天候には恵まれていました。だから、停滞も なく10日間で抜けられたということです。昔の記録とかを読むと、気象条件など大分変わ ってきたなと思います。特にここ2、3年はそうですが、皆さんも最近の気候はおかしい なと感じていると思います。去年なんか全く雪が降らなかったですし。
以前は真冬の北アルプス、特に立山、劔、白馬あたりでは1週間降り続いて2mを越す 積雪というのは普通でしたね。最近は少なくなりました。僕の記録の中には一晩で1mも 積もりテントが潰れそうなので一晩中除雪していたというのが何回かありますが、今回は 50㎝積もったのが最高で、夜中に除雪することはありませんでした。
黒部ダムへ行く関電の黒部トンネルが冬季閉鎖されて15年くらいになると思いますが、 それ以前はトンネルを歩いて、ダムから直接対岸に取り付くことが出来ました。普通の社 会人のパーティでも10日位の休みをとれれば、八ツ峰とか源次郎とかをやれたのです。そ れで一冬に10パーティとかが入っていましたが、トンネルが閉鎖されて以降は一冬に1パ ーティかせいぜい2パーティしか入らなくなった。というか、入れなくなったのです。
気象の話に戻しますと、天気的に見ても山に登りやすくなっています。移動性高気圧が 来て晴れるという確率が増えてきたという気がします。
Q;ラッセルがほとんどのように思いましたが、アイゼンをつけた個所はありますか?
A;当然アイゼンもつけています。ラッセルはワカンがほとんどです。ただ、アイゼンとワ カンを併用することはありません。アイゼン、ワタンはそれぞれ単独で使っています。
Q;燃料は何を使っていますか?
A;25年前に始めた頃はガソリンストーブばかりでしたが、最近はガスストーブも併用して います。バックアップという意味ではないですけれど、故障した時のことも考えています。 それに、ガスは付けたり消したりする時使いやすいのです。
Q;夜のテント生活の楽しみであるアルコール類はどの程度持って行っていますか?
A;人によって違いますけど、僕は500mlか多くて1リッター程度ウィスキーや焼酎を持って 行ってます。
Q;皆さん、体重はどれくらい減りましたか?
A;よく聞かれるのですけど、ほとんど変わらないですね。前に話しましたが、1日にアル ファ米300g食べています。以前は200gにしていたので、腹が減って腹が減って。それで 大分減っていましたけど、今は大丈夫です。年と共に新陳代謝が低下していることもある かも知れません(笑)。
Q;最近は携帯電話が必需品ですが、寒いとバッテリーの消耗が激しいと思います。予備の バッテリーなどはどうされましたか?
A;携帯は日中は切っていて、夜テントの中で情報を集める時だけ電源を入れます。ですか らほとんど消耗しません。予備のバッテリーを1個持っていれば充分です。僕はガラ系を 使っていますが、スマホを使っている人も同じような状況でした。
Q;50年ほど前、十字峡の付近で黒部の本流をワイヤーでかごに乗って渡った記憶があるの ですが、今はどうなっていますか?
A;そういえば25年前最初に黒部に入った頃、鹿島槍の牛首尾根の末端から剱側へワイヤー が架かっていたと思います。今はありませんけれど。
Q;私は10日間も冬山に入ったことがないので一般的な質問をさせていただきますが、狭い テントの中で同じ仲間と何日も過ごす秘訣は何でしょうか? また、ラッセルが趣味だとお っしゃってましたが、ラッセルの醍醐味は何でしょうか?
A;テント生活をうまくやるコツはやはり我慢することですね(笑)。夫婦生活と一緒だと思 います(笑)。
ラッセルは確かに好きです。振り返って自分達の足跡しかないというのが醍醐味と言え ますね。冬山で他人のトレースを辿っても、半分も面白味が無いと思います。自分でラッ セルすることに価値があると思っています。
Q;食糧とか燃料とかはデポしないのですか?
A;昔はしていました。天候のこともあったし怖かったのですが、最近はしなくなりました。 デポするのはやはり反則だと思います。昔と較べてテントも軽くなった。装備も軽くなっ た。食糧も軽量化されている。そんな中でデポするというのは、人間として退化している ことじゃないですか。50キロの荷物をキスリングで担いでいた頃は仕方なかったと思いま すが、今は反則だと思います。
それと、一番の原因は面倒くさいのです(笑)。デポしに行くのも面倒だし、再デポした デポ缶を回収しに行く手間もいる。ということでデポはしていません。
時間が来ましたので、これで私の話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。(拍手) (平成28年11月11日 講演)
山岳講演会
山岳講演会
[演 題] 私と山岳警備隊 -遭難現場報告-
[講 師] 岐阜県警山岳警備隊飛騨方面隊隊長 谷口 光洋 氏
(はじめに)
こんばんは。岐阜県警山岳警備隊飛騨方面隊の隊長をしています谷口と申します。私は岐阜県警ですが、富山県警にも谷口凱夫(かつお)さんという人がいて、よく間違われます。知っている人もいると思いますが、富山の谷口さんはものすごく活躍された人です。富山の熊といわれるようにすごく大きい人で、それに較べ私は岐阜の猿といったところです。富山の谷口さんは富山県警山岳警備隊を作られたような人ですが、私は現場ばかり歩いてきた人間です。昭和51年に入隊してから40年間、主に北アルプスを中心に救助活動をしてきました。
今日は山岳会の方ばかりでないということで、私たち山岳警備隊はどんなことをしているのかをあまり知らない人も ▲講師の谷口光洋氏
多いと思います。それで3、4年前に放映したビデオを用意してきました。20分程度のものですが、最初にそれを見ていただき、その後でお話ししようと思いますのでよろしくお願いします。
BS-TBS制作 『夢の扉』より 2012年10月18日 放送
500人を救命! 山岳レスキューを変えた男 谷口光洋
一刻も早い救助、1秒でも早く命をつなげる救急道具!
レスキューハーネス(RESCUE HARNESS)
錫杖岳での救助活動の様子
・40代女性が岩場から滑落。へりの近づけない岩場の途中の岩棚でパーティの仲間と一緒 に救助を待つ。日没まで2時間20分。時間が無く、救助を急がなければならない。
・谷口隊長の決断で、ヘリの近づけるギリギリの所で救助隊員を下ろし、そこから救助に 向かう。上からはパーティの仲間が遭難者だけを担ぎ下ろすことにする。
・1時間半後、どうにか遭難者が隊員の待機する場所まで下ろされてくる。
・すぐにレスキューハーネスを装着。遭難者を包み込み3カ所を止めるだけなので素早く 装着出来、隊員と共にヘリに収容。無事日没前に救助出来た。
・谷口の開発したレスキューハーネスは、多くの遭難者達の命をつないでいる。
谷口の話
・無事助けられた遭難者からのお礼の手紙の紹介、残念ながら助けられなかった遭難者の 手記の紹介
・「生きて帰れたらああ良かったなと喜びますし、力及ばなかった時は本当に寂しい気持ち です。山を愛する者が山で命を落とすことが無念でなりません。山岳遭難が1件でも少 なくなるよう、僕たちはこれからも頑張っていきます」
絶景!北アルプスの四季
・谷口が一番好きな山は地元の穂高岳
・穂高岳に毎年多くの登山者が訪れる理由は四季の美しさにある
・春の雪解け、初夏の新緑、秋のあざやかな紅葉、白銀の冬。そして夜は今にも降ってき そうな満天の星
山岳警備隊入隊の頃の話
・「入隊した動機は高校生の時、山で目にしたある光景です。登山中にたまたま事故を目撃 しました。山岳警備隊の人がサッと現場に来て、遭難者を背負ってパッと救助していく 姿がものすごく格好良かったのです。こんな人の命を助ける仕事があるんだな、自分も やりたいな、と思いました」
・昭和51年、神岡警察署で山岳警備隊に入隊。3年先輩の長瀬初彦隊員から登山や救助に 関する色々なことを教えてもらった。
・その長瀬隊員が昭和52年5月4日、救助活動の途中に墜落し死亡。その日北穂高岳の滝 谷で滑落事故が発生し、長瀬隊員達は救助に向かい谷口は穂高岳山荘で常駐していた。 8時間後「滝谷で隊員が落ちた。応援を頼む‥!」という無線を聞く。いやな予感を振 り払うよう現場に駆けつけたが、やはり長瀬隊員だった。落石をよけようとして転落し たのだ。人を助ける厳しさを谷口は胸に刻んだ。
・谷口が入隊した1970年代の山岳救助は民間の救助隊、特に山小屋の従業員が中心だった。 警察官の救助道具は十分でなく、救助に当たることはほとんど無かった。(穂高岳山荘 2代目主人 今田英雄氏の話)
・当時はザイルを遭難者の体に巻き付けて救助していたが、ザイルは重いし背負うのも背 負われるのも大変で、ヘリに吊り上げるのにも手間や時間がかかった。
レスキューハーネスの開発
・谷口が山岳ヘリ救助の先進国であるヨーロッパに研修旅行に行った時、フランスやスイ スの山岳救助隊が、これまで見たこともないヘリ救助専用の道具を使っているのを目に した。
・自分達で工夫して道具を作っていることに一番感心し、道具が無かったら自分達で作れ ば安全なものが出来るのだと考えた。そして、急峻な山でも遭難者を安全に背負い、そ のままヘリで吊り上げられる道具の開発を思い立った。
・登山用具メーカー社長の高橋和之氏と、山岳救助専用のハーネス作りに取りかかった。 何も分からない手探りの中、試作し、現場で試し、さらに改良を重ねること10年、つい に最強のレスキューハーネスが完成した。
・レスキューハーネスのポイント
①隊員と遭難者の姿勢が常に安定していること
②短時間で着脱できること
③すばやくヘリコプターで吊り上げられること
・装着はいたって簡単。遭難者を背中から包み込み、両脇の下と股下から出ている3本の 紐の先をカラビナで繋ぐだけ。
・レスキューハーネスはこれまでおよそ150人の命をつないできた。
・今年(平成24年)4月、谷口は山岳警備隊では全国で2人目の警察庁指定広域技能指導 官(専門分野で卓越した技術・知識をもつ職員)に選ばれている。36年間の山岳救助の 実績が評価されたわけだが、これからはその技術を全国の後輩達に指導していく使命を 背負っている。
・後継者として指導教育している入隊11年目の陶山隊員には、レスキューハーネスの改良 という大役を任せている。
夜中の救助活動の様子
・夜7時に遭難の一報が入る。現場は滝谷で滑落事故のようだ。遭難者は全身打撲と骨折 で動けない様子。
・車で30分走り、その先険しい山道を1時間登ったところに遭難者がいる。翌日は天気が 悪そうなので今晩中に救助しなければ危険な状態になると判断し真っ暗の中を出発。
・9時頃に遭難者を発見。30代の男性で、午前11時頃落ちて倒れていたところを通りかか った登山者が見つけ通報してくれた。もし誰も通らなかったら命の心配がある。見つけ てくれた人のおかげで救助できた。
・レスキューハーネスで交互に遭難者を担ぎ、谷口の先導により3時間かけて下山。午前 0時頃無事救急車で病院へ搬送した。
・今年(平成24年)41件目の遭難で、谷口は又1人命をつないだ。
エピローグ
・10年前に穂高岳で遭難し救助された人の感謝の言葉
・遭難死した長瀬隊員の未亡人の感謝の言葉
・「そう言ってもらうと本当に有り難いですね。この仕事をやっていて良かったなと思いま す。自分達で作れば良いものが出来ることが分かったので、ハーネスだけでなく他の道 具も改良していきたいですね」
・命をつなぐレスキューハーネス。1秒でも早く、1人でも多くの命を救いたいという思 いをつないでいく。 (終)
どうも有り難うございました。このビデオを作った当時は照れくさい気持ちでしたが、いまではいい想い出になっています。山岳警備隊の事を少しは分かってもらえたと思いますので、これからお話しをしていきます。
(入隊の動機)
最初に、映像にもありましたが山岳警備隊を志望した動機について話します。昭和48年の夏、高校生の時に友人と2人で槍穂高を縦走していました。キレットにさしかかると、当時南岳小屋を経営していた沖田さんが1人で遭難者を救助されていました。手伝おうとしたのですが、「もうすぐ警備隊が来るからいいですよ」と言われ、しばらく様子を見ていました。そしたら南岳の小屋の方から警備隊の人が2人サーッと来て、遭難者を背負って、今から思えば確保もあまりせずに、すごい速さで南岳の方へ梯子を上っていったのです。「なんてすごい人達なんだろう。それにかっこいいし人を助ける仕事だし、自分もやってみたいな」と思いました。
その当時「山と渓谷」とか「岳人」とかをずっと見ていましたし、二見書房の本で警備隊の手記とか民間救助隊の手記なんかを読み「この仕事がやりたい、そのためには警察官になろう」と思い、昭和50年に三田洞にある警察学校に入りました。1年間そこにいて、昭和51年春に神岡署に配属になりました。今は上宝村は高山市に合併されたので高山署が管轄していますが、その当時は北アルプスの警備は神岡署が管轄だったのです。35人くらいの小さな署で、希望すれば誰でも山岳警備隊に入れてくれたので、すんなり入れました。大変嬉しかったです。
(初出動)
初出動はその年の4月中旬でした。一月ほど前に西穂の独標付近で行方不明になっていた人が、稜線から400mくらい降りたところで発見されたのです。遺体を収容するため丸山あたりから降りて行くのですが、初めてアイゼンとピッケルを使って現場に向かいました。急な所はアイゼンを使いますが、皆グリセードで降りて行くのです。きついことをするなと思っていたら、半年程前に入った先輩が「俺には無理だから帰る」と1人応援を頼んで、西穂山荘へ戻っていきました。
他の隊員で現場に行きましたが、遺体は死臭がひどく顔はつぶれ日に焼けて真っ黒でした。すぐにシートでくるんでスノーボートに乗せました。ロープウェーの真ん中の駅に運ぶ予定だったのですが、ボートが滑らず時間がかかり、夕方になっても半分くらいしか進みません。立ったまま非常食を分け合って食べ、ヘッドランプを頼りに夜通しスノーボートを引きました。明け方から雨が降ってきて、私個人としては「そんなに急いで下ろさなくても、次の日にやればいいのにな」と思っていましたが、いずれにしても大変な仕事を選んだな、という気持ちがありました。
朝6時頃に仲間が応援に来ました。8時頃にロープウェーの中間駅付近に来ると、家族が待っていました。60才くらいの父親と思われる男性が走ってきてボートにひざまづき「○○チャン寒かったろう。皆が連れてきてくれたんだぞ。良かったな」と言ってから涙も拭かず「皆さん有り難うございました。息子はもう戻って来れないのではないかと思っていました。夜通し歩いてくれたのですね。本当に有り難うございました」とお礼を言われました。
私はそれで夜通し歩いた意味が分かりました。待っている人がいるのだから、出来るだけ早く連れて帰るのが務めなのだと分かりました。初めての救助で大変でしたが、お父さんのその言葉を聞いて疲れも吹っ飛びました。「何と感謝されるやりがいのある仕事なんだろう。これなら続けていけるな」と思いました。
当時は警備隊の成長期みたいな時期で、民間の山岳会の人に教えてもらいながら救助活動をしていました。夏は肩を貸して連れて来たり背負ったりしていました。亡くなった人は二つに折って背負子に括り付けて背負っていました。冬はスノーボートがありますが、いずれにしても時間がかかることが多く、救助される方も大変ですが救助する我々も負担が重く、背負っている途中で命を落とされるということも結構あり、辛いことも多かったです。
現在はヘリと携帯電話の普及で、ものすごく素早い要請とヘリレスキューが出来ます。ヘリから70mのホイスト(ウインチ)で吊り上げできますから、たいていの場所はピンポイントで救助出来ます。出来ない場所は北アルプスの岐阜県側では北穂の滝谷のツルム下と奥穂のジャンダルム近くのセバ谷附近です。そこでは70mでは届かず苦労して下したりしていますが、いずれにしても我々にとっては楽な救助になりましたし、遭難者にとっては生存の確率が高くなっています。
(二重遭難)
次に二重遭難の話しをします。我々救助に携わる者が絶対起こしてならないのが二重遭難ですが、残念ながら岐阜県では過去に2件発生しています。1件目は映像にもありましたが、昭和52年5月4日に滝谷で3歳年上の長瀬警部補が亡くなりました。状況は長野県の山岳会の人が滝谷で死んだのです。今はそんな気骨のある山岳会はほとんど無くなりましたが、当時は山岳会の人が自分たちで収容することが多かったのです。その山岳会も自分達で収容するけれど道がよく分からないので2名ほど道案内を頼む、ということで長瀬隊員ともう一人若い隊員が行ったのです。ナメリ滝という難所にさしかかり、雪渓を横切っていた時落石があり、それを避けようとしてアイゼンが滑り10m位落ちて岩にぶつかったのです。
私は当時入隊2年目で、近くの穂高岳山荘で第1回目の春山常駐という任務についていたのですが、夕方になって無線が入ってきました。谷底からなので感度が悪く断片的な情報しか入ってきませんでしたが、遭難間違いなしということで、他の隊員と3名でD沢を下り現場に向いました。長瀬隊員を山岳会の人と一緒に降ろしていると、下から警備隊の仲間や民間の北飛山岳救助隊の人も登ってきて、合せて20人以上集まりました。翌日病院に運びましたが、亡くなりました。
2件目は平成21年9月11日、ジャンダルムのそばのロバの耳という所で防災ヘリのローター(主翼)が岩に当って、ヘリがセバ谷に落ちて3名が亡くなるという大変痛ましい事故です。当日、私達警備隊は沢登りの訓練をしており、参加しなかった1人の隊員が現場で作業をしている時にヘリが落ちてしまったのです。すぐに別の警察のヘリで遺体収容とか実況見分とかを担当しました。
また、長野県に東邦航空という遭難救助に多くの実績があり、山岳遭難は任せなさいという会社があります。ヨーロッパ仕込みで、時間を短縮するためヘリの下部にワイヤーを垂らし、そこにハーネスをつけそのまま現場へ行くというすごい方法でやっていた篠原秋彦という大ベテランがいました。私も何10回となく一緒に活動しましたが、その人が平成14年に鹿島槍で、遭難者と一緒にモッコの中に入って吊り上った時に落ちて亡くなっています。
これ等の事故はその時その時の原因があります。長瀬さんの場合は、山岳会で収容したいというので道案内で隊員が2人行きましたが、今から思うと3年以内の若い隊員だけで厳しい現場に向かったということです。ルートの取り方に無理があり、ベテランがいたのに使わなかったということで人選も良くなかったと思います。
防災ヘリの場合は、うちのパイロットがたまたま所用で出れないということで、急遽防災ヘリに飛んでもらったのですが、やはり北アルプスの経験が乏しかったのです。山の天候は風や地形に左右されることが多いのですが、その特性を知らなかった。応援してくれたことには感謝していますがやはり無理があって、判断が良くなかったのが原因だと思います。
東邦航空の篠原さんは大ベテランで、日本で最高の遭難救助件数をこなしている人です。慎重な人ですが、何時も遭難現場をビデオで収めていました。危険な場所でもそうで、亡くなった鹿島槍の場合も遭難者と一緒に現場を離脱したまでは良かったのです。それで安心したのか、途中でビデオを撮るなどしており、やはり油断があったのだと思います。この他に北アルプスでは富山県警で3名、長野県では民間の救助隊員4名が殉職しています。
我々の場合も一般の遭難者と同じで、本人の無念さはもとより残された家族全員の生活が狂ってしまうということで本当に悲惨な出来事です。仕事というだけで、結果は一般の方の山岳遭難と同じで絶対やってはならないことですが、私達山岳警備隊は救助が仕事でありプロですから、遭難者の生と死が私達の双肩にかかっているのです。どんな危険な場所でも1分でも1秒でも早く現場に駆けつけ俺が助ける、という気位いというか気概がなければやれない仕事です。そういう厳しい中で40年間出来たということは、他人の命を助けることが出来たという達成感と、危険な所では私達しかやれないという満足感や誇りではないかと思います。他に楽な仕事とか楽なポジションがありますし、給料のいい仕事とか出世欲とかありますが、それと離れた所に変な魅力があり、その魅力があったためにこれまで続けられたのだと思います。
今は私達の活動が報道されたり本なんかも出ていますので、すごくいい隊員が入ってきます。県内だけでなく関西とか東京辺りからも来ていますし、大学の山岳部や社会人山岳会で海外遠征したような人も入ってくれて、すごくありがたいです。
(最近の遭難事故)
遭難事故のことについて話します。岐阜県下では昨年初めて遭難件数が100件を超えました。非常に残念なことです。正確には発生が106件で、負傷者60人、死者23人、そして行方不明が1人です。参考までに今年は10月現在で83件発生しており死者は11人となっています。昨年より少しは減っているということで喜んでいます。
県下の遭難の形態で一番多いのが道迷いで36件、次に転落滑落の33件です。北アルプスのように厳しい山では転落滑落が多いのですが、里山では道迷いが多いです。北アルプスは登山道がはっきりしており道標も多く、又来られる人もベテラン登山者が多いので、道迷いは少ないような感じです。
道迷いや冬山遭難で特に注意してほしいのは、皆さんの使われている携帯電話です。このバッテリー切れが一番問題です。今はどんな場所でも携帯が使えます。北アルプス周辺で使えないのは滝谷、白出沢、それに新穂高に近い右俣左俣、それ以外はほとんど使えます。ヘリを要請してからバッテリーが切れたため、特に冬なんかで遭難者を発見できず凍死というケースが何件かありました。
山ではバッテリーの消耗がものすごく早いです。このことを念頭において、時間を決めて警察と交信して、使わない時は電源を落としておく。さらに肌につけて寒さを防止、そして予備電池を何個も持つ、このことに配慮して欲しいです。110番で元気だと電話した後、どれだけ捜しても見つからず亡くなっていたというのでは我々もすごく悲しいですし、このバッテリーは絶対に大事にしてほしいと思います。
道に迷った時、沢や谷に降りて転落死というのも非常に多いです。迷って下の方に町の灯りが見えると「あゝ、あっちだな」と灯りの方に向かって夜でも下に降りていく人が多いのです。沢とか谷には地図に表れない滝などの難所が沢山あります。今までに地図に表れない滝に落ちて死んだ人も沢山います。迷ったらむしろ高い方へ行った方が発見されやすいし助かることが多いのです。そのことも頭に入れておいて下さい。
ヘリを呼んだら、林の中では発見しにくいですから、木の少ない所とか草原とかの発見されやすい場所に移動して我々を待っていてほしいと思います。余談ですが、昨年日本山岳会の人が奥飛騨の藪山に登られました。私も一緒するつもりだったのですが、たまたまヘリの用事が入って参加できませんでした。ヘリの用件を済ませて時間があったので、様子を見にその山に行ったのですが、皆さんの姿は全然分かりませんでした。後で登った人の話を聞くと、ちょうど頂上に着いた時にヘリが来てすぐに「あゝ、谷口さんだな」と分かったけれど、真上で爆音は聞こえても機体は全然見えなかったということでした。本当に林の中は全然分かりません。
分かりやすい場所に移動したらタオルとかジャンパーなどを振って、自分の居場所を教えて下さい。黄色とか赤色とかがよく分かります。穂高の稜線なんかでは登山者が多く、ヘリを見ると皆手を振るのですね(笑い)。ヘリの起こす風が強いので余り近くには寄れず少し離れた所から見ているのですが、誰が遭難者かよく分からないのです。持っているものを上に上げ大きく振って、気がついたなと思ったらそれを上下させて下さい。この2つの動作をしてもらったら大体分かります。
10年ほど前に長野、富山、岐阜3県の遭難防止対策協議会でこの方法がいいと決めたのです。その時は広報したのですが、大分時間がたったのであまり知らなくなってきています。改めて広報しなければならないなと思っていますが、この2つの動作をしてもらうと間違いなく発見出来ます。
林の中では煙を出すのもいい方法です。カメラや携帯のフラッシュをたくものいいです。何でもいいですから、自然の中に不自然なものが1つでもあったらよく分かります。東邦航空の篠原さんからは、女性のコンパクトが光ったので発見出来たという話を聞きました。色々方法は有ると思いますので、皆さんで自分が助かる方法を考えて下さい。
(ヘルメット)
次にヘルメットのことについて話します。北アルプスでは転落滑落が多いので、ヘルメットの着装をお願いしたいということです。現在、槍穂高では多くの人がヘルメットをつけています。100mくらい落ちて絶対ダメだろうという場所でも、全身打撲や骨折はしていても頭はやられず助かったていうケースが何件もあります。今年も長野県側に落ちたのを我々が助けにいったのですが、その時も100mくらい落ちていました。ヘルメットは着けていなかったのですが、近くに割れたヘルメットがあり、そのお陰で助かっていました。
岩場ではヘルメット着用をお願いします。涸沢ヒュッテ、涸沢小屋、槍ヶ岳山荘、西穂山荘などには貸し出し用のヘルメットもいくつかあるようですが、数に限りがあるのでなるべく自分のヘルメットをかぶって下さい。
昨年の御嶽の時もヘルメットはいろいろ言われましたが、やはり噴火に対しても有効です。飛んでくる岩なんかはヘルメットくらいではどうしようもありませんが、逃げる途中ころんだりすると思います。小石も飛んできたりしますからヘルメットは有効な手段です。長野、富山でもヘルメットをかぶるようにしましょうという動きです。
(登山届)
登山届について話します。岐阜県では昨年県条例を作って、北アルプス、御嶽、焼岳に入る時は提出することを義務づけしました。出さない人には過料とかの厳しい話しもありますが、それが目的ではなく、出してもらって安全に登りましょうということで作った条例ですからお願いします。
登山届は大事だと思います。この仕事を40年近くやっていて、遭難事故に際してもし登山届が出ていたら助かっただろうというケースが幾つかあります。登山届を出していたら早い立ち上がりで捜索出来ますし、場所もピンポイントで捜索範囲を絞ることが出来ます。是非出していただきたく思います。
さっき映像であった手記が出て来た事故は平成7年6月のことです。岐阜の方でしたが、西穂高の外(そで)ヶ谷という西穂山荘から焼岳へ行く尾根とロープウェーへ行く尾根の中間の谷に迷い込んだ32才の男の人がメモに残された遺書です。ちょっと読んでみます。
「95年6月14日 月曜から遭難して今日は水曜日 お母さんごめんなさい 助かるよう頑張るけど寒さがつらい 今は元気だけれどこの先分からない もしもの時はお母さん今までありがとう あなたの息子でよかった」とメモしたのが遺品から出て来たのです。母親が、同じ悲しみを味わう母親が出ないようにと公表していただいたものです。登山届が出ていたなら早い段階で間違いなく救出できたケースでした。私が登山届の提出のお話しをするのは、この遺書の中身がいつも心に残っているからです。
山岳会の方は何時も出されていますが、個人の場合は登山届を作るのが面倒ですし出しにくいものです。けれど作る時にはコースタイムの把握とかエスケープルートの確認、装備品や食料のチェック、万一遭難した時の連絡先の確認等が出来るので、作成すること自体が皆さんにとって有意義なのです。ですから条例云々と言うことでなしに登山届を出してほしいと思います。登山届を出さない魚釣りとか山菜採りの場合でも、少なくとも家族とか職場の人に行き先を言って出かけることが自分の為になります。
新穂高の登山口には山岳警備隊がいますので、入山先の道の様子とかの情報が色々分かります。ぜひ登山センターに立ち寄って登山届を出し、このコースに変わったことは無いかと一声かけてくことが皆さんの為にもなりますので、よろしくお願いします。
山の事故については昔から色々な本などに書かれており、山の死は綺麗なものだとか山で死ぬのが本望だとか言われていますが、残った者はかないません。山の死というものは全然綺麗なものではありません。これまで話してきたように、行けば顔はつぶれ手足は折れて少し経てば蛆がわいたりしています。死臭は凄いもので、背負った場合家に帰って風呂に入っても全然落ちません。長い時間が経った遺体はそんなものです。さらに、もっと運が悪くどうしても発見出来ない人も沢山います。もし生存しても、車椅子の世話になったり凍傷で指が無くなったりする場合があります。そうなった人を私も沢山知っていますが、本人はいいとして家族への影響とか生活のことを考えてみて下さい。
この悲惨な遭難事故を防ぐ方法として、無理のない計画、装備品や食料の点検、トレーニング、体調管理、それに加えて登山届の提出を呼びかけているわけです。昨年県下で遭難した人の40%が登山届を出していました。北アルプスでは70%出していました。条例になったことで注目されて提出率が上がったのだと思います。今年はさらに提出率が上がっており、すごくいいことだと喜んでいます。昨年は全部の遭難の80%にヘリコプターを使っています。まさにヘリの時代です。1年間に遭難に係わった警察官の数は延べ2000人です。これだけの人が出動しました。
ちなみに御嶽噴火の時岐阜県からも百何十人の警察官が出ていますが、これは遭難でなく災害だということでカウントされていません。私の隊も当日からずっと出動していました。長野県より規模が小さかったのですが、背負ったりヘリで吊り上げたりと色々活動しました。私も2日目から何回か現場に行きましたが、ものすごく規模が大きく我々にはとても手の出しようのない大災害でした。
(最近の遭難)
昨年の遭難事故について幾つかかいつまんで話します。
3月30日に西穂山荘と焼岳の中間にある割谷山にワカンも持たず一人で入った人が、雪がひどくて動けないと言ってきました。我々は夜遅くまでみぞれの中を向かったのですが、これ以上行ったら自分達も危ないということで帰りました。次の日朝早くから捜したのですが全然見つかりません。3日後にヘリが発見してくれました。この時期アイゼンはもとよりワカンも持っていないことでは一人で身動きがとれません。装備が不十分ということで基本が出来ていなかったということです。
5月5日に涸沢岳の西尾根、冬に奥穂高へ行く一番簡単なルートですが、そこにある大学のパーティが登っていて2名が転落しました。初心者の人がトップで登っていたのですね。初心者の人は間にはさむようにして行くのが基本ですが、その基本が守られていなかったということで、非常に残念でした。
5月30日に槍ヶ岳で滑落。凍結していたのですが、ちょっと写真を撮るだけだからとアイゼンをつけていなかったのです。この日2人亡くなっているのですが、もう少し道具の使い方に気を使ってもらったら簡単に防げた事故です。
7月9日に南岳で韓国の人が道に迷いました。地図も持たずスニーカーだけで食料もない、登山届も出してないという状態です。たまたま領事館に電話が通じて、領事館から連絡があり長野が捜して、岐阜県側だということで我々が出動したのです。このように何もかも不十分で無計画な登山者にも対応しています。
7月18日には焼岳で79歳の人が転倒して頭を打った。ツアー登山でしたが大人数の参加者のわりにガイドが少なく面倒見切れなかったのです。ガイドにも色々いるのでガイドの数をもう2、3人増やしてほしいと言ったのですが、コスト的に無理でした。
8月16日には滝谷が増水して3名が流されました。山の水は一時にザーッと出ますが、雨が止めばすぐに少なくなります。そういう特性が分かっておらず無理して渡ったのです。槍平の小屋の人が「危ないです。もう少し待ったらひきますよ」と注意したらしいのですが、山小屋の人が言うと「小屋に泊まってほしいから言うのだ」(笑い)と思われることもあるようなのです。それで、どこまで止めたらいいのか分からないこともあるらしいのですが、小屋の人は山のことをよく知っていますから、その人の判断に従っていただきたいと思います。
9月14日に錫杖沢で2人が同じ場所で蜂に刺されています。入り口に何個所か注意看板を出していたのですが全然見ていないのです。折角の立て看板ですから、色々書いてあることを注意して見てもらったほうがいいと思います。
今年の遭難でも思うことが幾つかありますので、紹介させていただきます。
1月11日に52歳の人が笠ヶ岳へ向かったのですが、降雪で動けなくなったということで救助要請がありました。3日後にヘリで収容したのですが、どこも悪くないのですが全然気力が無くなっているのです。隊員がテントから出てこいと言っても全く動く気力が無い。山では助かろうという気力が無いとダメですし、我々もやる気がなくなります。(笑い)
3月28日に北穂の第4尾根を登って帰る途中、雄滝の滝壺に落ちて亡くなっています。行方不明になって暫く後に発見されたのですが、滝壺なんかの近くを通る時はアンザイレンしてザイルをつけたままでないとダメですね。いくら急いでいてもそういう基本が守られていなかったということです。今年の9月にあった岩登りの方も、第4尾根を登ってツルムを越して斜度が緩くなったということでザイルを外して稜線に上がる途中でいなくなった。C沢の右俣に落ちて亡くなっていましたが、ザイルはどこで着けてどこで外すかをキチンとしないと、折角のザイルですが身を守ってくれません。
7月27日にはノルウェー人の夫妻が、西穂から奥穂へ行く途中馬の背で動けなくなった。どこも悪くないのですが、奥さんが「こんな所は怖くて行けない。日本の案内には全然書いて無いではないか。我々をこんな所に行かせるのか」と言うわけです。夫妻で弁護士をされている人でした(笑い)。たまたま穂高岳山荘に山岳常駐の警備隊がいたのでザイルを張って連れ帰ったのですが、言っていることが全然分かりませんでした。後から何も言ってこなかったので問題になることもなかったのですが、外国人の登山者は多いですね。
看板をどの国の言葉で書いたらいいか、難しいところです。多い順に英語、韓国語、中国語とかでは書いていますが、ノルウェー人は何語を話すか分かりません(笑い)。日本山岳会なんかを通して、日本にもこんな厳しいコースもあるということを世界に知らせてもらえば有り難いですね。以前、韓国の方の遭難が増えた時にそういう動きをしてもらったことがあります。それで韓国の登山者のマナーが良くなりましたので、ぜひ期待しています。
8月6日、弓折岳で登山者がすれ違う時、上から降りてきた人が登ってくる人を待ったのです。その位置が谷側だったため当たって落ちました。やはり、待つときは山側というのが基本ですが、その基本が出来ていないとこういう事故になります。
8月10日には3名で抜戸岳から降りる途中で夜になったけれど、ヘッドランプが1つしかないので迎えに来てもらえないかということです。天気が悪いけれど行かないわけにもいかないのでいやいやながら行ったのですが(笑い)、アルプスへ行くときはランプ位は持ってきてもらわないと困ります。
8月19日には別の遭難があり、私も乗ってヘリで出動しました。その遭難者は長野の方で亡くなっていたのですが、ジャンダルムの飛騨尾根の横で1人倒れているのを発見しました。遭難してしばらくたっていたのですが、家族からもどこからも連絡はなく登山届も出ていないというので、気づくのが遅れたのです。早く分かっても助かるような場所ではないのですが、登山届が出ていれば早く捜索して早く見つけてやることが出来たと思います。
8月20日には焼岳で単独の登山者が下山中道を間違えて、さっきお話したように下へ降りて行ったのです。黒谷という中尾の方へ降りていく谷に入り、途中幾つか滝を降りたけれど最後の所でどうにもならなくなって救助要請がありました。たまたま携帯が通じる場所だったので助かったという事例です。やはり下へ降りるのは無理だということです。
(ヨーロッパ研修)
次にヨーロッパの研修のことを話します。皆さんの税金で行かせてもらいましたので、何か役に立つことがあればと思いお話しします。平成9年にフランスとスイスに行きました。こういう時代ですから装備とか訓練とかはネットで調べればわかりますが、現場の空気というものが知りたくて、お願いして行かせてもらったのです。
フランスではPGHM(山岳憲兵隊)というのがシャモニにあって、モンブラン、ドリュー、グランドジョラスとかで活動しています。これは軍隊です。兵隊が50名くらいいて、ドクターもいてヘリと一体で動いています。国立のスキー登山学校を卒業したエリートの集りで、選ばれたというプライド、身分保障もすごい。訓練も多く新しい装備を常に研究していました。ただ殉職者もすごく多く、ヘリの基地に40もの殉職者の名前が刻まれた碑があって横に空地もあるのです。「これからも殉職者は出るのかな、これは真似したくないな」と思いましたが、とにかくプライドとか新しいものを作る意欲というのは勉強になりました。
スイスではレガという所に行きました。これは年会費3000円を払えば誰でも会員になれるという組織で、世界中何処へでも行く、山岳、スキー、事故、病気何でも行くという対応です。ジェット機が2機、ヘリが16機、常にドクターや山岳ガイドが同行し、ここでも装備は自分たちで開発していました。ここもプライドの高い隊員でした。
まだ時間がありますので余談として聞いて下さい。私が腹の立ったことです。穂高岳山荘で足が痛くて動けないというのでヘリを頼まれた人がいました。痛ければ乗せていきますが、たまたまヘリが整備に入っていたのです。その頃は民間のヘリもありましたので、「県警のヘリは整備中なので、民間のヘリなら呼べます。若干お金はかかりますが」と言ったところ、「金を出すくらいなら歩いて降りる」(笑い)ということです。当時1時間60万円でかなり高いのは事実ですが、それなら最初から頼まなければいいわけで、そんな言い方無いだろうとこれには本当に憤慨しました。
もう一つですが、以前はアマチュア無線で遭難をキャッチすることが多かったのです。地元に大きなアンテナを立ててSOSをキャッチしてくれる人がいました。大変ありがたかったのですが、助かるたびに「感謝状を出しなさい。新聞にも載せなさい」と言うのですね。確かにありがたいのですが、度を越しているという感じで個人的には嬉しくなかったです。
これまで話したように、個人的な満足ということで助ける喜びはありますが、助かった人が良くなりましたと言って交番とか署に来てくれるのも嬉しいものです。退院しましたという礼状と一緒に地元の酒なんか送ってくれたりするのが一番いいですね。そういう時が人から喜んで貰える仕事をやっていて良かったと思う瞬間です。
(不思議な話)
不思議な話をします。平成の初め頃白出沢を夜遅く降りてきた人が、セバ谷の付近で人魂(ひとだま)を見たというのです。その後別のハガキが来てあの付近に光っていたと書いてありました。その頃奥穂の山頂付近で1人行方不明の人がいたのです。その人は大分上の方で見つかりましたし、私達はそのようなもの信じて捜索するようなことはしていません。霊媒師に見てもらうような家族の人もいて、図面を送ってくるのです(笑い)。どこどこの岩の附近にいるとか言ってくるのですが、捜しても見つからないのがほとんどです。
このように不思議なことはあまり無いのですが、平成12年に穴毛谷で抜戸岳の2700m附近からこれまで日本で一番大きいという雪崩が発生して、新穂高付近で土木の作業をしていた人が2人巻き込まれました。幅が200m厚さ7mくらいあり、どこを捜していいか分かりません。ブルドーザーが300mくらい流されてあったので、その付近ではないかとゾンデで探すのですが、1日やっていても見つかりません。夕方頃奥さんが来て「うちの人はここにいるのでここを掘って下さい」と、作業していた近くの窪みみたい所を指すのです。どこを捜すというあてもないので、折角だからと奥さんの言う所を重機で掘ったら出てきたのですね。素晴らしい奥さんでした。私の女房なんかはダメだと思いますが、そういう不思議なことがありました。
もう一つ、双六の山小屋の従業員が小屋に行く途中いなくなったのです。200人近くの人が3日4日と捜し、ヘリでも見る所がないくらい捜したけれど出てきません。最後にお母さんを「息子さんのいなくなった場所を最後に見ませんか」と言ってヘリに乗せました。飛び立って5分もしないうちに「あれは何ですか」と指差されたのです。後で捜しますと、そこに仏さんがいたのです。それが無かったら多分見つけることが出来なかったと思います。お母さんの息子さんを思う一途な気持ちが通じたということで、これも不思議な事でした。
(おわりに)
山は素晴らしい感動があり、私も山を楽しんで山から多くのことを学んでいます。しかしお話ししたように、感動の裏には遭難というものが潜んでいます。山岳会の方は比較的いいのですが、一般の方は山について学ぶという機会が少ないような気がします。あらゆる機会を通じて、山は怖いものだということをお話して知ってもらうことも我々の仕事ですので、そういうことをこれからもやっていこうと思います。悲惨な事故が一件でも無くなることと、日本山岳会岐阜支部のますますのご発展を祈念して、私の話を終ります。ご清聴ありがとうございました。(拍手)
〔質問〕長野の方で山岳ルートの難易度を決めることをしていますが、岐阜県はどうですか?〔答え〕グレーディングのことですね。長野を中心に関東の方で5県くらいで取り組んでい ます。安全登山につながるいい事なので、岐阜県も今年からある程度山を選定して 取り組んでいます。私と北飛山岳救助隊の隊長と山岳連盟の木下さんが中心になっ て、その土地の山に詳しい人に聞いて山の難易度を認定する作業に今取り組んでお り、近々発表出来ると思います。
〔質問〕山岳警備隊の任務を終えたら、自分で山を楽しむ気持ちはありますか?
〔答え〕個人的に山は好きですから、警備隊を辞めた後あまりみっともないことは出来ませ んが、楽しい山行をするつもりです。
〔司会〕参考までに、谷口さんには昨年日本山岳会岐阜支部の会員になってもらいました。
〔谷口〕新米ですので、よろしくお願いします。(笑い)
〔質問〕登山届ですが、岐阜県は県警に出しますが、愛知県や三重県でも同じですか?
〔答え〕岐阜県は条例が出来てから登山届は県が管理するようになりました。これまでは最 寄りの署や登山センターで受け付けていましたし、これからもそこで受け付けます が、最終的には県の方へ送ってそこで管理します。よその県も警察へ出して大丈夫 ですが、県が管理するようになると思います。登山届は県が管理し、警察は遭難救 助と事故防止の方を担当するということになっています。(拍手)
(平成27年11月13日 講演)
平成26年山岳講演会 山小屋から見た日本のエネルギー問題と「山の日」
平成26年11月14日 山小屋から見た日本のエネルギー問題と「山の日」
山岳講演会
[演 題] 山小屋から見た日本のエネルギー問題と「山の日」 [講 師] 日本山岳会会長 森 武 昭 氏
はじめに
皆さんこんばんは。今日こういうお話をする機会を与えていただき、まことにありがとうございます。寒い日になりましたけれど足を運んでいただき、本当にありがとうございます。
1年近く前に高木支部長から「何でもいいですからお話しして下さい」と言われお引き受けしたのですけれど、何をお話ししようか悩みました。その頃には山の日が決まっているだろうから、日本山岳会の会長としてそれを話そうかと思ったのですけれど、それだけで1時間話すのはちょっとつらい。私は今までいろいろと山小屋のエネルギー問題に携わってきましたが、それが今後平地での生活でも同じことになっていくということで、今勤務している大学で時代の先端をいくような新しい取り組みをしています。それで表題のように「山小屋から見た日本のエネルギー問題」
ということで、そのようなエネルギーの話をさせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。
山小屋で一番最初に取り組んだのは、岐阜県と長野県の県境にある穂高岳山荘です。ちょうど3000mの稜線にあるこの小屋で、太陽光発電と風力発電をやりました。その次に岐阜県の双六小屋で太陽光発電をやりました。その後、一昨年講演された穂苅さんが経営する槍沢ロッジで小水力発電をやって、それから上高地の日本山岳会の山岳研究所でやはり小水力発電をやりました。あと穂高岳のちょうど反対側の蝶ヶ岳の小屋で風力発電の研究、これ以外にも沢山あるのですけれども代表的なのはこういうところです。
太陽光発電
まず太陽光発電ですけれど、今から30年も前になりますが穂高岳山荘のテラスに設置しました。もちろんそれで山荘全部の電気を賄うことはできませんけれど、20~30人のお客プラス従業員の電気を賄うという仕組みです。ここで私が一番最初に勉強したのは、発電量をなるべく多くしようということで20°くらいの角度で設置したのですけれど、これはあまりいいことじゃないということが分かりました。何故かというと、無理に角度をつけると台風などの風圧荷重に耐えるために、架台をものすごくしっかりしなくてはならないのです。そうすると全体が重くなるということで、現在は屋根にベタッとくっつける方式にしています。発電量は7%くらい減るのですけれど、機械的強度から考えるとコスト的に見合うということが分かったのです。穂高岳山荘の次に双六小屋で太陽光発電を設置しましたが、最初から屋根にくっつけました。
平地でも家庭で太陽光発電を設置する時は、傾斜のある屋根の時はみな屋根にベタッとくっつけて無理に角度をつけることはしないと思います。角度をつけると下の架台にものすごく強度がいるので大変なのです。フラットな屋上に設置する時も、発電量からすると角度はその場所の緯度に合わせるのが一番いいのですけれど、そうしないで大体5°とか10°くらいにやっています。やはり風圧荷重に対する問題でそういうふうにしているのです。
山小屋で太陽光発電を設置して何が一番喜ばれたかというと、発電機というのは大体音がうるさいので小屋の中心から離れた場所、小屋によっては別の建物にあります。山小屋の従業員は朝暗いうちに起きて食事だとかの準備をします。そのため真っ暗な所を発電小屋に行かなければならず、これは天気の悪い時などはかなり危険なことなのです。現にそういうふうに外に出て大きな事故を起こした事例もあるのです。太陽光を設置してバッテリーに蓄電しておくと、朝起きるとすぐに点灯でき従業員は明るい所で作業ができるのです。バッテリーを有効に使うという意識も出て来ました。それでずいぶん喜ばれましたが、これも30年前の話です。
太陽光の設置はプロを雇うとコスト的に高くなります。ヘリコプターで機材を上げるだけでも高くなるので、プロの設置業者に頼むと特に高くなるのです。それで私は、学生を鍛えて全部学生にやってもらいました。それだと飯代だけで済むということで、最初の頃は学生のボランティアというか卒業論文の一環としてやっていました。
技術的な話になりますが、太陽光で厄介なのは日射強度が変わるので一番電力がとれる点が変わるということです。日射条件が変わってもピークで発電するようにコントロールしていかなければならない。それで考えたのは1秒間に1回スキャンして最大電力点を見つけることです。そうすると雲や何かで条件が変わっても、1秒間の間に関して言えば最大電力でできるという発明をして、これで実は特許を取ったのです。この方式でやると、大体14~15%発電量が増えるということを研究としてやったのですね。
太陽光発電の特徴は、何といっても保守が不要だということで、これが最大の利点です。ですから各家庭で設置しても全然問題ないのです。南向きで影がほとんど生じない場所に設置すると常時発電量に換算すると定格電力の12~10%を発電します。例えば、一般家庭の多くは3.5KWというのが一つのパターンですが、それは最大で発電した時が3.5KWのわけです。夜は発電しないし天気が悪いと発電しないから、1年間でならすと大体能力の10%、350Wの電気を常時使っても大丈夫ですということです。逆に言うとそれぐらいの量しか発電しなので、これが太陽光の弱いところです。それを挽回するためにはメガソーラーみたいに広い面積一面に太陽光発電を設置しなくてはいけないということです。広い面積がいる、これが太陽光発電のネックです。
風力発電
次に取り組んだのは小型の風力発電です。風力発電で何が一番難しいかというと、風は強かったり弱かったりといろいろ変化します。風が強い時プロペラを横へ向けないと壊れるのです。そのためのいろいろな方式を穂高岳山荘で苦労してやりましたけれど、一番いいのは極めて原始的な方法でした。穂高では大体岐阜県側から西風が吹きます。風が当たるところにベニヤ板を置いて、風が強くなるとベニヤ板が引っ張られ、それに紐がついていて紐がプロペラを引っ張り横へ向くのです。「極めて原始的な方法だがそれが一番いい、あまり変なハイテクを持ってくると後のメンテが大変だ」と今でもこれでオーナーはやってます。
私は、今お話しした穂高岳山荘の上高地をはさんで反対側にある蝶ヶ岳の小屋でも風力発電を設置しました。けれどこれがなかなか大変でした。一番いい条件で600W発電する計画でしたが、小屋のトイレの20Wの白熱電球1個しか使えない。山の上なら風が来るからいいと思いますけれど、そのくらいしか発電しないのです。何が難しいかというと、風が一定じゃないということもあるのですけれど、羽根に対して風が直角に当たらないといけないのです。ここでも西風が吹くので小屋の前に出したいのですけれど、前は登山道があるから危なくてだめなのです。登山道から引っ込んだ場所へ持って来ると、風がみんなフーッと上へ抜けていって効率が良くない。今でも一応やっていますけれど、あまり効果を発揮しないとうことが分かりました。
これはある業者が設置した仙丈小屋の話しですが、バイオトイレがあり、それをある程度温めるためにヒーターとして太陽光と小型風力をハイブリッドで使っているのです。ところが、風力はほとんど働きません。何故なら後ろに建物があって、風がいくら来ても風が通り抜けずに乱れてしまい全然発電しない。原理的にももう無理です。建物が近くにあるとお互い干渉し会ってほとんど発電しないのです。データを聞いたら2~3%しか発電しないということでした。それじゃ建物の屋根の上に設置したからいいじゃないということですが、裏に森があって風が通り抜けないのでこれも全然だめです。こういうふうにして、小型の風力発電というのは地形の影響をものすごく受けるのです。私も大学で実験しましたが、建物がちょっと横にあるともう全然だめなのです。
かつて「回らないつくば市の風車」ということで有名になりましたが、こういう小型の風力発電をつくば市の小中学校に設置したのですね。理系の先生じゃなかったと思いますけれど、早稲田の先生が発電量を予測したのです。ところがその10%どころか数%しか発電しないというので、つくば市が損害賠償を要求して裁判になったのです。一審ではつくば市が3割で早稲田が7割の判決だったのですけれど、二審では逆になって最高裁も二審を支持しました。つくば市も風力発電に対して知見を持っていなかったという責任を問われたわけです。
どうしてそんなことになるかというと、今は各地に大型の風力発電がありますね。あれは地上から大体50mくらいの高さにあって、そこで回っているのです。そのくらい高いと地形の影響をほとんど受けない。そうすると、国が作っている風強マップというのがちゃんとあって、それで計算すると大体予測通りに発電し採算ベースに乗るのです。ただ、これもまた問題が多くて難しくなっているのですけれど、これは後でお話します。
一方、低い所では回りに木だとか建物とかがあるとその影響を受け、その風強マップをもとに計算しても全然合わないのです。それは私たちから見たらごく当たり前の話なのですね。このように裁判になるくらい小型の風力発電は難しいのです。ですから、家庭で太陽光発電はよく見ますけれど、小型の風力発電を家庭で設置してるというのは恐らくほとんど見ない。ですから私も今はほとんどやっていません。
私は今、秋田県のにかほ市という所で垂直軸の風車を使った風力発電の実験をしています。垂直軸は風の向きがどこから来ても大丈夫だというのが特徴ですけれど、これを南極に持っていこうということなのです。南極では風力発電は非常に有効なのです。どうしてかというと、今「しらせ」は南極に向かっていますけれど「しらせ」の運ぶ荷物の大体2/3は燃料油です。油と食料はもう命の綱ですから。他にいろいろな設備があって、研究のための設備というのは5%くらいしか積めないのです。もうこれ以上油を積むことはできないので、南極でも自然エネルギーを積極的にやろうということなのです。今私がその責任者をやっているのですけれど、南極では多分風力発電が優秀な力を発揮するだろうという見通しでいます。にかほ市で実験しているのは1基20KWですけれど、これを南極で5基設置していく計画です。
先ほどの大型の風力発電の問題ですけれど、一つには発電量の変化が激しいことです。一定の風というのはめったに吹かないから当然ですけれど、発電量が多くなると電力系統が維持できなくなります。維持できなくなると停電が起こるということです。それを防ぐためにはバッテリーで貯蔵するしかないのですけれど、容量に限界があります。
さらに、最近は騒音、電波障害、景観、動植物等の環境問題が非常に多くなってきました。動植物というのは渡り鳥のバードストライクですね、これがけっこう多いのです。それから山の中に設置しようとすると、そのために幅4mの道路を取り付けなくてはならない。いくらエネルギーは自然に優しくても設置するのが自然破壊じゃ困りますよ、という指摘があります。また、最近大きな問題になっているのが超低周波振動です。羽根が回ると0.5から1サイクルくらいの超低周波の振動がズーッと地面を伝わるのです。これは人間がものすごく不快感を感じるということで、これも問題になっています。そのため、ヨーロッパでよくやられているのですけれど、最近は海上に設置する、そういう時代になってきたのです。
ということで風力発電に対する私見を述べますと、コストを追求すると大型化になる。大型化すると環境問題も複雑化して、設置場所が洋上とかに限定されてくる。小型風力は一見環境に優しいけれど能力を発揮しない。山岳地域では保守も含めて問題が多くて普及は望めない。八ヶ岳でも若干やっている所がありますけれど、砂なんかが飛んできますので大体2年から3年くらいで羽根を交換しないと駄目なくらい傷むのです。そういう意味でも非常に難しい。せめて南極でこれから本格的にやっていこう。南極では建物からかなり離れた所に設置しますので音の問題もありません。そういう段階です。
小水力発電
次に取り組んだのは小水力発電です。小水力発電は沢の水を引き込んでタンクに貯めて、そこからパイプを通して落とし発電します。発電後の水は飲料水でも使えるしまた元の川へ戻します。上高地の上流、梓川に注ぐ沢に発電小屋を建て1KWの発電機を設置しました。小さいものですが、水力発電は1KWだと常時1KW発電します。さっき言ったように太陽光は大体10%しか働かないわけですから、太陽光発電に置き換えると10KWに相当する。設備の利用率が非常に良いというのが水力発電の一番の魅力なのです。小さな350W程度の発電機で定員が50~60人の山小屋を十分賄えるのです。
これはもう15年前に私がやったのですけれど、お椀のような形をしたベルトン水車というのを使った非常にシンプルな構造です。当時は見学者が非常に多かったのですけれど、今ではもう少し規模が大きい小水力を各地でやり始めています。皆さんご存知ないかもしれないけれど、農業用水とか下水道とかいろいろな水を使ってやっています。岐阜県は特に熱心で、そういう小水力の協議会があります。私も全国の協議会の理事をやってますけれど、そういうことで水力は今元気な状態にあります。
水力では落ち葉だとか砂だとかの異物が入るのを防ぐのが技術的に一番難しいのです。何も対策をしないと、落ち葉が皆タンクに入るので大変なのです。上高地の小水力ではパイプの上をバーベキュー用のネットで囲っています。落ち葉が貯まるとだめなようですけれど、実はネットは下からちゃんと入るようになっているのです。これで1年間ほとんどメンテナンスをやらなくて済みますけれど、うちの学生がこういう方式を開発したのです。
私は水力発電で一番勉強したのは、発電機とバッテリーの間の問題です。太陽光は特にそうですけれど、水力発電でもインバーターで直流から交流に変換してバッテリーで貯めるのです。バッテリーというのは充電しすぎても放電しすぎてもだめで、ある範囲内でしか使えないのです。電圧もある範囲で電流もある範囲で使わないとだめなのです。山小屋では負荷をいっぱい使ったりあるいはほとんど使わない時があるので、いつもバッテリーを監視して守ってやらなければならない。それをマイコンを使って負荷を制御する装置を作ったのです。ある範囲から飛び出ると負荷の制御装置が働いて保護してやるのです。バッテリーが「もう電気が足らなくなってくるよ」と言うと、優先度の低い所から負荷を切るのです。大震災の後東京などで計画停電をやりましたけれど、計画停電をすると全部電気を落とさなくてはならない。山小屋ではそれでは困るので優先順位をつけて、片方は冷蔵庫だとか通信、照明だとかの重要な器機の系統、片方は炊飯器とかポットとか時間を特定しなくていい優先度の低い器機の系統に分けて制御をするという装置を開発したのです。これは山小屋で非常に喜ばれました。実は今日の最後に出てくる結論は、こういうことを平地でもやらなくてはいけない時代に今後なっていくであろうということなのです。
小水力発電の長所は、流量が確保できたら常時安定した発電を得ることが期待できることです。短所は立地条件が限られるし落ち葉や砂などの対策が必要、それから大水に対する対応が必要だということです。山小屋では管理人がいますので、大水になろうとすると発電を止めてバイパスで水を流してダウンさせます。今後の展望ですけれど、商用電源との連携により効果が高まることが期待されますけれど、これは現にもう始まっています。価格設定がきわめて重要ですけれど、これも割合いい値段で出来そうなので今後増える可能性が大だということです。電力貯蔵は今はバッテリーが中心ですけれど、マイクログリッドという方法もあります。これは後で話しますけれど、そういう中核になり得ると思います。
最後に小水力発電の最大の課題は水利権というややこしい問題があることです。水に対して必ず水利権が設定されていて、それをどうクリアするかが問題です。農業用水には農地改良組合とかという団体がちゃんとあるのです。そこが自らやるときは大丈夫ですけれど、一般の人がやる場合にはその水利権をクリアするのが非常に難しい。さらに、水利権がきちっと確定している場合は水利権を買うかお金を払って使う権利をとれば法的に問題ないからいいですけれど、慣行水利権というのがあってこれが一番難しい。そういう水利権は法的に設定されていないけれど、昔からの慣行でこの水は我々が農業で使うのだとかいうのが多いのです。そういう水は手がつけられません。そういう水利権という難しい問題が水力発電にはあるということです。
日本のエネルギーの現状と課題
次に、私が携わってきた太陽光、風力、小水力の三つを通して、日本のエネルギーの現状と課題ということをお話させていただきます。日本の発電の割合ですけれど、大震災により福島の事故が起きる前の10年くらいは大体原子力が30%、火力が2/3、水力が7~8%というところでした。再生可能エネルギーとか自然エネルギーとかはその当時から言われていました。その定義は厳密には違うのですけれど、ほとんど同じことで全体の0.7%しかなかったのです。その0.7%の内訳を見るとバイオマス発電が約半分。このバイオマスというのは自治体がゴミ処理をした熱を発電に使っているのが大部分で多いのです。それから大型の風力発電。これはコスト的に合うので多かったのです。太陽光は今でこそ注目を浴びてますけれど、全体で見ると0.7%の中のなおかつ10%くらいしかなかった。これが2007年の時の割合だったのです。
それが大震災後の2012年では、原子力は1基だけ半年くらい生きていたので1.7%。原子力で不足した部分を火力が補っています。その大部分は液化天然ガスで石炭もけっこう頑張っています。石炭と言うと戦後の古い話で、日本ではもう石炭を掘っていないから本当にこんなにあるの、と疑問に思われるかも知れませんけれど全て輸入です。輸入先は大体オーストラリアとか中国ですけれど、コスト的に割合いいのです。水力の割合はほとんど変わらない。そして再生可能エネルギーが0.7%だったのが2012年度で1.6%に伸びたということなのです。あれだけはやしたててやっても全体から見るとこの程度なのですね。水力と合わせて大体10%、国の政策としては今後20%まで増やそうとしていますけれど、うまくいくかどうか危ないところです。
再生可能エネルギーの中でさっき言いましたように太陽光発電は非常に少なかったのですけれど、2012年から急激に増えてます。それに対して風力発電はここまではグーっと伸びたけれど、以後ほとんど変わっていません。地熱発電もほとんど変わってない。バイオマス発電も若干増えていますけどそう大きく変わっていません。そうすると、再生可能エネルギーがこういうふうに伸びてきた大部分は太陽光発電が増えたからだということがお分かりいただけると思います。
外国の再生可能エネルギーの状況をみると、統計の年が違うので一概に言えないのですけれど、日本の1.6%に対しドイツは14.7%、スペインは18.5%、イギリスは6.2%、アメリカでも4.4%です。どうして日本はこんなに少なくヨーロッパはこんなに再生可能エネルギーが使えるかというのがポイントなのです。これは今まさに問題になっていますけれど、日本は送電網が非常に弱いのです。その理由は、東日本は50ヘルツで西日本は60ヘルツと中部地方の東で二分されている。その境界に3か所変換所がありますけれど、変換電力量が非常に限られているのです。それから北海道とか四国とか九州という島の問題があるのです。関門海峡とかにケーブルは通っていますけれど、1本か2本しかないのです。そういう島の電力の系統はものすごく弱いのです。今本当に強いのは東京電力と東北電力の地域と中部電力と関西電力の地域だけなのです。
一方、ドイツやスペインがなぜ強いかというと、ヨーロッパでは国を超えて送電線がメッシュ状に走ってます。それでそれぞれの国で持っている電力の強いところを生かすことが出来るのです。例えばフランスなら原子力、北の方スウェーデンあたりの地域は水力発電が強い。水力とか原子力は常時安定して発電してくれるから、そこに少々不安定要因のある自然エネルギーを持ってきても大丈夫ということなのです。ドイツは原子力を止めて自然エネルギーを増やしており、スペインもそういう政策にだんだんなっていますけれど、それが出来るのです。ドイツは海上に設置する洋上風力発電が主力で、太陽光もドイツやスペインでどんどん増えています。こういうふうにしてヨーロッパは再生可能エネルギーは非常に普及が進んでいますけれど、日本はまだまだ低いということです。日本はそのベースが弱いところに不安定要素の多い再生可能エネルギーを持ってくるからいろいろな問題が起きてきます。今まさに新聞紙上を賑わしている買取価格をどうするかという問題が出てきていますね。そこがヨーロッパと全然状況が違うところなのです。
固定買取り制度と電気料金
太陽光発電が2009年11月から固定買取り制度をやっています。これは家庭とかメガソーラで発電した電気を送電線につないで電力会社に送ります。これを一般の消費者が使うわけで一般の消費者は賦課金を電力会社に払う。それで電力会社は事業者に固定価格で支払うという制度です。最初10KW未満いわゆる家庭用が48円で10KW以上が24円だったのです。それで家庭用はグーンと増えたのですけれど、1KW24円では買う電気と売る電気がほとんど同じ単価なのでメガソーラーはあまり出来なかったのです。もっと普及を進めようということでそちらの値段を上げて、家庭用は普及が進んできたので少しづつ下げてきたのです。
実は、私はちょうど2009年に家を立て替えたものですから、そこで太陽光発電を設置して48円で契約出来たのです。10年間48円で買い取ってくれるという非常にありがたい制度です。私は家の電気の売買のデータをとってきました。1月2月は暖房を使うので買った方が多いのですけれど、3月から11月までズーッと売った料金の方がはるかに多いのです。48円の単価だから余計そうなるのですけれど、これだと3.5KWの設備費を5年で回収できるという計算ができます。
この買い取った価格を賦課金と言っているのですけれど、買い取った分は電気料金に賦課金を上乗せしていますから国民全体が負担してるわけです。その賦課金が最初は20円とか21円だったからそんなに目立たなかったのですけれど、最近はこれが200円以上になってしまいちょっと問題になっています。太陽光発電をやりたくても出来ないのに賦課金だけどんどん来るというような問題が出てきたのです。今年5月に電気料金が大幅値上げされたのですけれど、再生可能エネルギーの余剰電力を買い取った分を還元する分が225円です。毎月皆さん225円払っているのです。それを今後どうするかというのが問題です。電力会社によって若干違いますけども、消費税も上がって全体として430円値上げという状態です。
家庭用の買取り価格はさっき言ったように48円で出発したのですけれど、これが2013年度は38円になります。24円だった10KW以上のメガソーラーを、もっと普及させようというので38円に設定したのです。これなら儲かるということで、いろいろな業者がやり始めてメガソーラーが非常に普及していったわけですけれど、それが問題になり2014年度は買取り価格を下げて、太陽光は38円だったのが37円、大型のものも36円から32円に減っています。何故問題になったかというと、価格の高い時に契約だけしておいて工事は後からゆっくりやろう。価格は20年間保証されており、設備費は時間と共にだんだん安くなる傾向にあるから、もう少し待ったほうがより儲かる、というような計算をするわけです。ですから買取枠は急激に増えたけれど、実際の発電量はあまり増えていないのです。電力会社は契約がこれだけあるからそれだけ電気が来るということを前提にしてシステムを組むのですけれど、実際には太陽光の電気が予想通り来ない。システムがうまく働かないと停電が起きる恐れがありますからもう契約はできませんよ、ということで今新聞紙上を賑わしているのです。
コスト的に見るとどうなのかというと、設置条件によって変わるから一概に言えないのですけれど、住宅用の太陽光発電は今の36円とか32~33円ですと大体トントンで設備費が回収できるかなというところです。メガソーラーは36円ですとかなり有利です。小型の風力発電は55円ですごいいい値段ですけれど、さっき言ったように難しいからやる人はいないのです。大型の風力発電は22円ですから10~15%稼働すれば採算が合うと言われてえます。昔はずいぶんよかったと思いますけれど、環境問題なんかがあって認可がなかなか取れない。小水力発電は原価は20円くらいで買い取り価格は今30円ですからこれはかなり有利です。そういうふうな状態になっています。ちなみに、原子力は大体10円前後ということです。ただ計算のやり方はいろいろ難しく、地域住民に対する対策費だとかいうのが入っていない純然たる発電価格ですので、一概にこの数字で比較するのはちょっと乱暴だとは思います。
家庭用の電気料金は最近どういうふうになってるかというと、以前は大学で授業をしている時「日本は電気料金が世界一高い」と言ってればすんだのです。ところが最近は電力の自由化が進んで、かなり中位になっています。逆にデンマークとかドイツ、イタリアなんかがかなり高くなっていますし、スペインも高くなっている。それは採算的にあまり合わない再生可能エネルギーを積極的に導入しているためで、どうしてもコスト的には高くなるということを示しています。韓国は今でも一番安いのですけれど、今原子力なんかが問題になっています。アメリカはかなり安いです。どうしてかというと電力に税金がかからないのです。日本は消費税も含めてしっかり税金がかかっていますが、アメリカは税金かからないので安いのです。
産業用で見ると、昔は日本はダントツに高かったのですけれど、今はイタリアが1位です。日本が高いと言っても1KWあたり15円です。家庭用は24円ですから大規模な所は安く小さな所は高くということです。日本の電力会社はほとんど家庭用で儲けてるとよく言いますけれど、15円と24円はでは全然違いますよね。
エネルギー問題の今後
エネルギー問題の対応策ですけれど、家庭レベルでの取り組みとなると、最近あまり言わなくなりましたけれど、まず節電を徹底することです。省エネとしては、技術革新により非常に進んだ省エネ機器を積極的に導入する。それから創エネ、これは主に太陽光ですね。蓄エネとしては今後電気自動車を有効利用して、夜間安い電気料金で充電して昼間使わない時は余剰電力を電力会社に戻す、というような有効利用が考えられます。
システムとしてどういうふうにやるかというと、家庭単位ではスマートハウスと言いますけれど、これを導入して全体のエネルギーをコントロールするような仕組みを作らないとだめだと思います。更に進んで地域でエネルギーをシステム化することをスマートグリッドと言います。本当はマイクログリッドと言い今でも学会ではそう言っていますけれど、オバマ大統領がスマートグリッドと言い出したので日本ではそう言っています。これはエネルギーは地産地消が基本であり、あるエリアでエネルギーを地産地消してどうしても過不足がある時は電力会社とつなごう、ということを地域としてやっていこうという考えです。ですからある程度大きい範囲が必要で、発電としてはメガソーラーと小水力発電が中核になると思います。そして全体をマネージメントして整備し、過不足分を電力会社と売り買いするということです。
まず家庭でスマートハウスをやって、次は地域でスマートグリッドというふうに将来的には進んで行くと思います。その場合にIT通信情報技術を導入した制御をやっていこうということで、今うちの大学が日本で唯一の認証機関になっていますけれど、スマートハウスの具体化としてスマートメーターというのが今後普及していきます。今は各家庭に電力量計がついていますけれど、今後10年間で全部スマートメーターに切り替えるという計画なのです。
スマートメーターは何が違うかというと、そこに光ファイバーが入っている。その光ファイバーの通信回線を使って、家庭内の電気をコントロールできるし電力会社へのコントロールもできるという仕組みです。具体的にどんな利点があるかというと、今は月に1回電気料金を検針に来ますけれど、あれがもういらなくなってしまう。光ファイバーの通信回線を通して電力会社が確認すれば料金が決定できるのです。
さらに電力会社側から考えると、将来万一電力が足らなくなった場合、今回の大震災の時のような計画停電、地域ごとに全面的に停電するというようなやり方はやらなくてすみます。電力量が80%しか無いから各家庭にも80%しか供給しませんよ、80%の中でどう使うかは各家庭で優先順位をつけて決めてください、ということも出来るようになります。
家庭の側では、エアコンとかの機器をエコネットという規格に合ったものにしないといけませんけれど、外からでも全部コントロール出来るようになります。例えば岐阜駅に着いて後10分後に家に着く。今日は寒いからそれまでに部屋を暖かくしたいと思えば、スマートフォンなんかをポンと押すと暖房器具が動き出す。それから、外出した時に「今日ひょっとしたら電気消すの忘れたかもしれない」というような不安になることがありますよね。そういうのも全部スマートフォンを使うと光ファイバー通信経由で全部チェックしてくれる。そういうふうに、いろいろな使い方ができるのです。
このスマートメーターは今ちょっと遅れていますけれど、もうそろそろ東京電力が販売を始めます。それが出てくるとまたいろいろな状況が変わってきて、これがこれからの電気の使い方の恐らく主体になると思います。それはまさに私が山小屋でずっと経験してきたこととまったく同じことなので、そういう時代になったというのが今日の私の結論なのです。
山小屋では節電は本当によく従業員に徹底されており、省エネも徹底されています。LEDなんかの省エネ機器は売り出した頃から山小屋では積極的に導入しています。創エネは太陽光発電を導入し、蓄エネはバッテリーを使用している。ただバッテリーはコストがものすごく高いけれど寿命はそう長くない、山小屋では大変これに苦労しています。一昨年講演された穂苅さんの槍ヶ岳山荘では、恐らく年間1千万くらいバッテリーにお金を使っていると思います。さっき話したスマートハウスの概念は、経験則で実際に山小屋では昔からやっているのです。平地で現在やっていることは山小屋ではすでに実践済みなのです。それで山小屋から学ぶことが多いというのが私の経験です。以上でこの話は終わります。
「山の日」の話
最後に「山の日」の話をします。「山の日」の成立と今後の活動ということで、皆さんもうご存知のように「山の日」が制定された歴史をちょっとお話させていただきます。
「山の日」の制定運動は2002年に国連が定めた国際山岳年が始まりです。日本でもいろいろな行事をやりましたけれど、その総括として日本に「山の日」を制定しようという提案があったのです。ただし、これは祝日ではなくて単に「山の日」を制定しようという提案だったのです。ところが、これがなかなかうまくいかず提案は潰れてしまいました。山岳団体の動きが鈍く、大きな活動にならなかったのです。実は、日本山岳会も全然積極的に動きませんでした。
新しい動きはそれから7年後の2009年、日本山岳会の当時の宮下会長が年頭の会報で「山の日」制定運動を提案しました。それで日本山岳会では「山の日」のプロジェクトチームを作って取り組むことになったのです。その根底に宮下会長が言っているのは、100周年の記念事業で中央分水嶺踏査という一大イベントをやりました。北海道から九州までの日本の中央分水嶺を千人ぐらいの会員で全部踏査したのですね。それによって裾野がうんと広がったのです。それを踏まえて、もっと裾野を広げるために「山の日」というのを制定しようということを提案されたのです。中央分水嶺踏査の時に私はたまたま事務局長をやっていたものですから、そういうご縁もあって私も活動に参加することになりました。
まず2012年の4月に、日本山岳会や日本山岳協会といった有力な山岳5団体で協議会を発足させました。そして、パンフレットの配布などの運動を地道に展開していましたけれど、その年の秋頃に国会議員による「山の日」制定の呼びかけが始まったのです。そしらた選挙の直前だったためか100人近くの議員がワーッと賛同したのです。そして、2013年4月20日に超党派の「山の日」制定議員連盟が発足しました。
一方、国民運動も展開していかないといけないというので「全国山の日制定協議会」が発足しました。これは山岳団体だけでくて、地方自治体の人とか産業界の人とかはもちろん、国会議員の一部の人も入るという形で、議員連盟と車の両輪でやっていこうということになりました。「全国山の日制定協議会」の会長が今自民党の幹事長をやってる谷垣さんです。谷垣さんは東大山岳部の優秀な方で、日本山岳会の会員でもあります。谷垣さんが中心で、その下の副会長が今日みえている尾上前日本山岳会会長ということなのです
国会における審議は、2013年11月22日の国会議連13回総会で「山の日」を8月11日にするということを決定します。これにも紆余曲折がありまして、山岳5団体は6月の第一月曜日、ちょうど夏山に入る前の一番いい時を「山の日」にしようと決議したのですけれど、国会議員の手にわたるとそういう話はどこかへ行ってしまうのです。何故かというと、「日本は祝日が多過ぎる。その上に更に祝日を増やすのは反対だ」との声が経済界から上がり、「それだったらお盆の頃なら実害が少ないだろう」ということで、お盆が13日から16日ですから「8月12日にしよう」と最初は決まったのです。ところがそう決めた途端に、ご存知のように8月12日は日航機の墜落事故があった日ですので、群馬県知事なんかは「その日を祝日にするなんてとんでもない」という話になりました。国会議員の方はいい意味で柔軟性がありますから、「それじゃあ1日前にしよう」ということで8月11日になったのです。
もう理念も何もなくて私たちにはよく理解出来ないのですけれど、まあそういうことで8月11日にしようという案を3月28日に議員立法として衆議院に提出しました。国会というのは議案が出てもいろいろもめるじゃないですか。私なんかもそんな簡単にはいかないなと思っていたのですけれど、トントントンと進んで3月28日に提出して4月23日に衆議院の内閣委員会、28日に衆議院の本会議、連休明けの5月21日に参議院の内閣委員会、23日に参議院の本会議を通過したのです。国会議員もやる気になれば簡単に出来るじゃないかということなのですけれど、これには本当に驚きましたね。こういうことで国会を通過して、再来年から8月11日が祝日「山の日」ということに決まったわけです。衆議院は票が読めない起立多数ですけれど、参議院は賛成213反対15でした。反対はどこだったかの二つの会派が自主投票にしたため党議拘束をかけなかったのでこれくらい反対があったのです。
その後の動きですけれど、それまで「全国山の日制定協議会」だったのですけれど制定されてしまったので5月28日に「制定」を取って「全国山の日協議会」としてスタートしました。もちろん谷垣さんがそのまま会長でやっています。そして国民運動を展開しようと各地で記念フォーラムなんかをやっていますけれど、各都道府県には今までのいきさつがあるので何も8月11日にこだわらないで運動を展開しています。例えば国連の国際山の日は12月11日です。各都道府県によってもいろいろ違い、例えば岐阜県は8月8日を「岐阜山の日」として活動している。それぞれ今までのいきさつがあるので、これはこれで各都道府県のやってることを尊重して行こうという姿勢です。
「山に親しみ山の恵みに感謝する」というのを大きなキーワードとして、チラシを作って配布して「山の日」の意義をアピールする活動をやったりしています。上高地で今年8月11日にプレ・プレイベントとしてやったのですが、その日は大雨で、バスターミナルの所でちょっとチラシを配っただけで終わりました。岐阜県側でもその日に西穂山荘の前で揺りましたけれど、やはり天気が悪くて大変でした。お隣の東海支部は夏山フェスタということで新聞社と組んでやって、初日は3850人、2日目は2800人、合計6650人というものすごく大勢の方が来ていただいた。これが今後一つの指針になって、全国でこういうことをやろうじゃないかという動きも多分出てくるのではないかと思います。
今後どういう展開になっていくか分かりませんけれど、いろいろ話しが進んでいます。作曲家の船村徹さん、この方も日本山岳会の会員ですけれど、今「山の日協議会」の顧問になってもらっていますがものすごく熱心です。「山の日」の歌を作ろう、作曲は俺が引き受けてやるよとおっしゃっています。それで新聞などで歌詞を公募したらどうかという動きもあるのです。これからどういうふうにやっていくかが課題です。日本山岳会でも検討しなくてはいけないし、岐阜支部の皆さんにもいろいろお願いに上がると思います。以上で一応私の話は終わらせていただきます。どうもご清聴ありがとうございました。(拍手)
Q&A
Q:槍ヶ岳山荘も小水力をやっているのですが、槍沢とかの国立公園内の水利権はどうなっ ていますか。
A:先ほど、今から15年くらい前に上高地で小水力発電やったという話をしました。これは
技術的にはそう難しくないのですけれど、行政関係の許認可を得るのが大変だったのです。まず国立公園の中ですから環境庁、特別天然記念物の指定地域なので文化庁、土地は林野庁、水は一級河川の梓川の枝沢から取るというので当時の建設省、現国土交通省。それ等への書類は全部、地元の今は松本市になっている当時の安曇村を通して長野県、そして本庁へいくのですね。全部許可を取るのに3年かかりました。
その中で今お話のあった水利権が一番難しかった。建設省へ行くと「それは難しいね」とけんもほろろ。ところがもう時効だから言っていいと思うのですけれど、日本山岳会というのはやはり有力な方がいっぱいいるのですね。そういう方に相談してみたら「そうか、ある人を紹介してやるから」と紹介してもらって、その当時の建設省の局長さんに会いに行ったのです。そしたら「やろうとしていることはいいことなのはよく分かる。だけど法律というのはいろいろ難しいんだよ。ちょっと時間をくれ」ということでした。 その局長さんは実に理解のある方で、せっかく環境にやさしいいいことをやるんだから何とかしようとして新しくルールを作ってくれたのです。というのは「一級河川の枝沢だから権利は建設省が持ってるけれど実際の管理は地元の市町村がやってる。だから地元の市町村がいいと言えばいいことにしよう」という新しいルールを作ってくれた。その上流にその水を使ってる人がいなければ、地元の市町村がOKすればいいですよというルールを新しく作ってくれたのです。それが今でも適用されていろいろな所でOKになっています。それは一級河川の話ですね。
さっき言った槍沢ロッジもやっているのですけれどこれは水利権無しです。なぜかというと湧水でやってるからで、自分の土地の中の湧水だからこれは水利権無いですよね。 奥多摩の三条の湯というのは東京都の水道局が管理しており東京都民の水がめになっている。そこに頼みに行ったら「そういう環境問題に役立つなら小屋もきれいになるしいいですよ」ということで、その頃になると理解がだいぶ進んできたのですね。やはり最初は大変でした。
Q:木曽川など一級河川でも、上流部でその上をだれも使っていない所を探せば大丈夫とい うことになりますか。
A:私がそれを決めるわけではありませんけれど、そういう事例がありますよというお話を されれば、十分可能性はあると思います。
Q:我が家では13年前にソーラーをつけたのですが、発電量がどんどん減っていくのですね。 やはり古くなったということでしょうか。寿命年数は大体どのくらいでしょうか。
A:穂高岳山荘で30年前に設置した太陽光発電はその後蝶ヶ岳の小屋に移して今でも発電し ていますけれど、発電量は全然落ちていません。ちょっと専門的な話になりますけれど、 太陽光発電も時代とともに変わってきています。一番最初の頃はシリコンの単結晶とい うタイプで、宇宙開発にも使うものすごくいいものですけれど、その代わり値段も高い。 それは今でも大丈夫です。その後にいろいろ新しいタイプが出てきており、一応10年と いうことになっています。けれど、それは法定年数ですからもっと長持ちするのは当然 で、13年くらいで衰えるのはちょっと巡り合せが悪かったのかな(笑)。
どこのメーカーか知りませんけれど、外国のメーカー品ですごく安いのがあります。 某国の製造工場を案内されたことがあったのですけれど、クリーンルームの管理なんか いい加減なもので、破片をほうきで掃いているのですね。それを見るとやはり信用でき ないなと思いました。安ければいいというものではないということを改めて実感したわ けです。国の名前は申しませんが、大体皆さんお分かりいただいたと思います(笑)。
Q:太陽光パネルの表面は掃除しなくてもいいのですか。汚れがちょっと気になります。
A:掃除をすれば若干もちますけれど、ほとんど効果は変わりません。ある国の研究機関で 一方は毎日掃除して一方はやらないのを比較したのですけれど、ほとんど差が無いので す(笑)。あるメーカーの特許なのですけれど、最近はパネルの縁がゴミをちゃんと受 けるようになっていて雨が降るとそこから砂なんかが落ちていくように出来ている。こ れはものすごく素晴らしい発想です。ですから、一生懸命磨いてやるよりはやはり自然 が一番いいみたいです。(拍手)
平成26年11月14日 講演